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黎明の蜜蜂(第9話)

章太郎は玄関の鍵を開け、ドアノブをゆっくり回した。音をさせないようにそっとドアを開く。もう寝ているはずの大夢(ひろむ)を起こさないためだ。

大夢は慣れた日常と違うことが起きるのを嫌う。と言うか、耳慣れないこと、見慣れないこと、予測していないことが起こることに敏感で、時にはそれでパニックになる。

自分が家に入ってきたことを大夢に知られないようにという、これまでの経験則にしたがった動作を無意識にする。ふと、自分はここでは異邦人なんだなと思った。

いきなり、玄関奥のリビングに通じるドアが開き、結菜が顔を覗かせた。無言で章太郎をリビングに入れる。
 「もう真夜中だぞ。遅くまで起きているんだな」

夕方、今日は家に帰る、遅くなるから夕飯は要らない、と母親にラインは入れたが、妹が起きて待っているとは思わなかった。
 「お兄ちゃん、お酒臭い」
 「ちょっとな、つき合いがあって」

それだけ言うと、キッチンに入りコップに水道水を満たした。一気に飲み干す。数か月ぶりの帰宅だ。大夢のことも両親や妹のことも気になっていたのに、何を言ってよいのか分からない。

 「お父さんもお母さんも、もう寝たよ」
 結菜の方から口を切った。
 「そうか」
 「明日、朝早く起きて公園の掃除に行くから」
 「公園の掃除?」

 「そう。大夢が今通っている施設では、リハビリの一環として公園とかの掃除を一緒にしたりするの。いつもはお母さんが付き添っているけど、明日は土曜だからみんなで行くのよ。朝、人が少なくて静かなうちに一時間程度」
 「ひろむは、そんなこともできるようになったのか。リハビリの効果が上がってるんだな」
 「そう。最初は家から支度して出るだけでも大変だったけど、少しずつ。お父さんもお母さんもすごく喜んでるし、私も嬉しい」

結菜の笑顔に章太郎もつられて頬が緩んだ。
 「ね。お兄ちゃんも来ない?お父さんがバンを運転するからさ」
章太郎は言葉に詰まる。
 「いや、また今度にするよ。ひろむは予め決められた以外のことが入るのは苦手なんだろう?」

 「ひろむにはお兄ちゃんが来るかもしれないって、何度も言っておいたから。とにかく明日の朝、ひろむの心の準備ができているかどうか見て決めたらいいんじゃない?」
 「いや、またにしよう。行くなら行くと前から予定を決めて、ひろむの負担も最小限になるような計画を立てよう」

結菜の顔に失望の色が浮かぶ。それでも、章太郎は怖気づいたような自分の心が、どうしても解きほぐせなかった。

生まれてこの方、ひろむとの接触は本当に少ない。ひろむの幼いころに自分が家を出たこともあり、兄弟としての交わりはほとんどない。

そのせいもあってか、たまに顔を合わせると決まってひろむは不安定になった。大夢にとっては、自分は闖入者なんだなと感じる。弟のパニック状態の時しか知らない自分もまた、その姿を前にして戸惑うばかりだ。

「今日はちょっと飲み過ぎた。もう寝るよ」
「和室に、お母さんが布団敷いてくれてるから」

憮然とした声の結菜と目を合わせることもなく、章太郎は隣の部屋に入り、そのまま倒れ込むように横になった。柔らかく受け止めてくれた布団から乾いた草のような香りがする。母さん、忙しいのに布団を干しておいてくれたんだ。

眼の横から涙が一筋流れて行くのを感じた。指で拭って、暗闇の中でその指を凝視する。見えない指、見えない涙を見つめ続けた。

自分は何かしら殻をかぶっている。誰に対しても、いつ頃からか殻をかぶり始め、その殻は特に就職してから年々厚くなっているように感じる。

何故だろう?理由は分かっているような気もするし、分からない気もする。
  
三十歳手前、まだ支店勤務をしていたころ、ある日支店長から声を掛けられた。支店長が懇意にしているという顧客から頼まれたと言って写真を見せられた。

この頃は、こういうことはしないんだがね、個人的な知り合いということで頼まれたんだと言いつつ支店長はその写真を出した。土地持ちで賃貸アパートなども何棟か所有する素封家の娘の縁談を頼まれたという。

「財産管理をしっかりしてくれそうな銀行員は有力な婿候補なんだそうだ。銀行員を辞めてという話ではないんだよ。親はまだ元気だし、会計管理のアドバイスなどしながら、いずれ跡を継いでくれたらということらしい」

向こうさんは君と僕が歩いているところを見たことがあるそうで、乗り気なんだ。君、だれかいい人がいたら結婚したいけど彼女いないって言ってただろう?

話の続く支店長の前で、章太郎は身体が固くなっていくのを感じた。確かに先日外回りの途中、支店長と一緒に蕎麦屋で昼飯を食べた時そんな事も言ったが、それは話を合わせたに過ぎない。そういう年ごろなんだから、そういう答えが一番自然だろうから。

“だれかいい人がいたら結婚したいけど、彼女はいない”というのも嘘ではない。しかし、結婚に漕ぎつけられるのだろうか、という不安がいつも沸き上がるということは言っていない。

支店長の声を上の空に聞きながら、三年前の別れがきつかったな、と思う。学生のころから付き合っていた子だった。お互いに好き合って、結婚の方向に一途に進んでいると思っていた。いや、進んでいた。あの時までは。

結婚の言葉がお互いの口から出るようになって、章太郎はひろむのことを話す決心をした。それまでどうしても勇気がなかったが、隠してこの先まで進むことはできない。

話を切り出したとき、彼女の頬が小さく痙攣したのを見た。それでも彼女は冷静に聞き、章太郎は知っているだけのことをできるだけ正確に話した。彼女は聞き終わって別れる時に、大変だったのね、と寄り添う言葉もかけてくれた。

しかし、その後送ったラインに既読がつかなかった。彼女もショックを受けたんだなと思った。

数日後、彼女ではなくその母親から電話があった。ソフトな、しかし細かく震える声で謝りつつ、結婚話はなかったことにしてくれと言う。

頭では仕方がない、想定の範囲内だ、と冷静に受け止める。同時に、心臓が締め付けられるような感覚が電話の間中続いた。

 「あの子は、障害者の方に接したことはないんです。弟さんは重度で、精神病院に入院されているんですってね。あの子も、私たちも親戚も皆、健常者で、だれも障害者の方への接し方も分からないんです。ごめんなさい。だから無理だと思います」

健常者? 障害者? 何か世界のあっち側とこっち側に線を引くような言い方じゃないか。怒りの言葉が喉もとに突き上げてきそうになった。

それを何とかねじ伏せて「分かりました」とだけ言って電話を切った。切る間際まで、ごめんなさい、すみませんと繰り返す声が聞こえていた。

怒りに任せて、彼女に「お母さんから電話があった。君自身から話してもらいたかったな」とラインを送った。
数日してから「今日か明日、時間ありますか?」と返信が来た。日比谷公園で出会った。人影はまばらだ。

「私自身に話してもらいたいと言われたので来ました」
堅い表情のままだ。
「でも母が電話をしているとき、そばにいました」

「じゃあ、君の考えはその通りなんだね」
「そうです。ごめんなさい」
下げた頭を上げた時の、彼女の顔が歪んで見えた。

「私のことひどい人と思うでしょ。母のこともひどいと思うでしょ。でも、私だって何故最初から話してくれなかったのと言いたい。こんな辛いことってない。私には無理。無理なのよ。恥ずかしい。情けない。でも、無理。私は情けない人間よ、きっと。でも何故、こんな辛い思いをさせられなきゃならないの?」

彼女は次第に興奮し、泣き出した。泣き叫んだ。数メートルも離れたところを歩いている人までが振り返る。章太郎は「すまない」と頭を下げ、下げたまま彼女が走り去る足音を聞いていた。

なんでまた、こんなことを今頃思い出すんだ。暗闇の中で章太郎はつぶやく。確かにその時の感覚は今も抜けていない。

だが、それを言い訳にはできない。自分は元から、この家族の現実から逃げようとしてきたのではないのだろうか。

今の銀行に就職してから、周りの雰囲気に自分を溶け込ませることに腐心してきた。誰に言われたのでもない。しかし銀行という組織の穏やかに見える海面の下では、強い海流が流れ、激しい競争の渦が巻き起こっているのを感じる。

自分に関するネガティブなことは言わないことだ。誰かに言われたことがある。ここではね、箸が転んだようなことでも皆にすぐ知れ渡る。
何年かいると、それは本当だと分かってきた。

社会は変容してきて、従業員の病気や家族の事情などに対応することは企業の責任となってきた。そういった意味で、働く環境は以前と様変わりしたと言えよう。

しかしトップ争いをする者にとっては、話は別だ。皆を引っ張る立場として、その責務を果せる能力と態勢が整っているか、が肝要だ。

もちろん個人的事情を汲み取って、能力を最大限発揮してもらえるよう、組織はサポートもするが、組織を運営するのも人間だ。そこでどのような判断をするかも一概には分からない。いずれにしても、変わっているなあいつ、と言われたら、それは相当なマイナス評価だと思って間違いない。

なんでまた、こんなことが頭に浮かんでくるんだ。酔ったな、本当に。そんな言葉が頭の中をぐるぐるするうちに眠り落ちてしまった。

あくる日、目を覚ましたら家の中がしんとしている。キッチンのテーブルに母親の字で書き置きがあった。
「昨日は先に寝ていてごめんなさい。卵焼きとお味噌汁があります。お昼までに帰ります」

章太郎は布団をたたみ、洗面を済ませて朝食をとり、母親にラインを送った。
「昨日は布団も干してくれて、ありがとう。美味しい朝ご飯嬉しかったです。今日は用事があるので午前中に出なくてはならず、すみません。また来ます」

食器を洗いつつ、実家に帰っても結菜以外の誰にも会わず、そそくさと出てしまうなんてなあ、と思う。今回は近くで飲むので実家には寝に帰った、用事がある、というのは本当だが。

どこか逃げている感をぬぐえない。そこに蓋をするかのように玄関のドアを閉め、鍵をかけた。

                      (第10話へ続く)
黎明の蜜蜂(第10話)|芳松静恵 (note.com)

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