「それでも、逃げない」に込めた三浦瑠麗さん・乙武洋匡さんの思いと、障害や困難の引き受け方について

昨日は、三浦瑠麗さんと乙武洋匡さんの、新刊記念トークイベントに、行ってきました。

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大仰なお題ですが、お二人とも、私がとても共感を持っている方なので、楽しみにしていました。
この度の新刊は、これです(トップレビューを書いたのは、私です)。

三浦さんは、私より1つ上の39歳、乙武さんは、5つ上の43歳です。そんなに歳は離れていないから、いくら40歳を”不惑”とは言うものの、そんなことを人様に語れるのか、という印象は、正直、事前にはありました。

質疑応答があることを想定して、一番聞きたいことを用意していたので(聞きたいことは他にもあったのですが)、それを聞くことができました。本稿では、そのことについて書きます。

何を聞いたかと言うと、こんな感じのことを訊ねました。

「逃げない」って言うけど、逃げた時がいい時もあると思う。
パワハラを受けまくったりして、
逃げないと、死ぬぜ。
潰れるぜ。
ひょっとしたら、電車に飛び込むかも知れないぜ。
逃げて逃げて、逃げまくればいい。
そういうことについてどう考えるか、聞かせて欲しい。

以前にも、同趣旨の記事を書きました。
逃げて逃げて逃げまくれば、気がつくと、心に余裕が生まれています。課題に直面化するのは、そのあとです。


まずは、三浦さんのお答えから。

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書籍のタイトルに込めた思いは、他人から逃げるのではなく、自分(自身)から逃げない、ということ。逃げて何をするかが大事だと思う。休んでもご飯が食べられるかとか、コンビニで笑顔でお釣りを渡されて、それを受け取れるかとか。
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現実には、それができるかどうかで、障害認定(障害者手帳の交付や、障害年金の受給など)がされます。認定申請の診断書を医師が書く時には、例えば、次のような事項を確認します。自分自身を受け止められなければ、それはもう、病気なのか障害なのか、ともかく、健常とは言えないということです。

精神障害を認め、
□ 社会生活は普通にできる
□ 家庭内での日常生活は普通にできるが、社会生活には、援助が必要である
□ 家庭内での単純な日常生活はできるが、時に応じて援助が必要である
□ 日常生活における身のまわりのことも、多くの援助が必要である
□ 身のまわりのこともほとんどできないため、常時の援助が必要である
(いずれかに、チェックを入れる)

欧米でよくあるのが、夏休み明けの、子供の自殺率悪化を防ぐために、”逃げていい”と言うのだそう。しかしながら、それは、支援者(親とか学校とか)のための言葉だと。当事者である子供は、そんな広告の載っている新聞なんか読まない。


三浦さんは、追体験してみるといいと、言っておられました。
例えば、妊婦さんなら、お腹に5キロの重りを持って生活してみるとか。
精神疾病に関わったことはないが、たぶん当事者の頭の中は高速回転している、と。

そうおっしゃったので、意図的にこう、口を挟みました。

「その通りです。私、うつ病(障害認定)2級なんで」

そしたら、「でしょ?」と。

私は、癒しをもらった気がしました。私は、自分よりちょっと年上の女性がタイプ♪
なのかどうかはどうでもよく(苦笑ww)、自分が長年、探し求めていたのは、こういう優しさのことなんだなと。そして、そんなに簡単に巡り合えるものでもないのだと。

対人支援の業界でいう、「共感する」とか「寄り添う」とかいうのは、こういうスタンスのことを言うのだと、得心しました。
「障害なんて関係ない、みんな同じ人間なんだ」と言う人もいますが、このコラムなどで何度も申し上げているように、私はその立場は取りません。
間にグレーゾーンがある発達障害のようなものは稀で、ほとんどの障害は健常者と障害者の間に、厳然たる断絶が存在します。

乙武さんは、はっきりおっしゃっています。「障害は地獄だ」と(出所、忘れました。すみません)。”うつ地獄”とは、よく言ったものです。

その断絶が容易には乗り越えられないことを認識しつつ、思いを馳せる姿勢に、当事者は感謝の思いを持ち、少しずつ心を開いていくんですよ。上っ面の”受容”なんて、簡単に見破られます。


ただ、この質問の仕方は、ちょっとよくなかったかも知れない。

なぜなら、「お前は自分から逃げている」と人に忠告する方もいますが、私は”逃げるのは上等”だと思っています。自分の人生ですから、ずっと逃げ続けるわけにはいきませんが、目の前の人がそういった問題に、いつでも直面化できる状態にあるとは限らないのです(専門的には、意図的に直面化させることを、”暴露療法”と言ったりします)。


続いて、乙武さんのお答え。

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人生の大目標からは逃げてはいけない。
ただ、「逃げる」という言葉はネガティブな単語なので、「選ぶ」という言葉を使いたい。

例えば、”不登校”というと、登校か、”不”登校かのどちらかしかないことになる。実際には、フリースクールとかN高とか、他の選択肢はたくさんあるのに。
会社を休むのも、一時的に離れるのも、それは”選択”であって、”逃げ”ではない。

そして、自分は、社会の選択肢を増やしたい。自分の最大目的から逃げるのは、死ぬ時に後悔する。
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三浦さんも指摘されていましたが、これはかなりリベラルな考え方です。私はこれに、完全同調しますが(その意味では、私もリバタリアンです)。

自分のことを述べると、私は、社会的弱者に手を差し伸べ、僅かでも力になることを、自分の人生の目的と考えている。

社会的弱者というのは、経済的弱者に限らず、例えば、健康に恵まれなかったり、これといった才能に恵まれなかったり、パートナーシップを含む良縁な人間関係に恵まれなかったり、打ち込めるような社会的役割(それを「仕事」と言ったりする)に恵まれなかったり、といった人を想定している。

そしてたぶん、自分もこの定義の中に含まれるのだと考えている。だから、体裁としては自分は支援者だけど、支援ー被支援、という関係よりは、その人に伴走するイメージを、常日頃持っている。専門的に言うと、”ピアスタッフ”と言います(→参考)。


三浦さんは、こうも言っておられました。

感情を斜め上から俯瞰(理解)できるのは、人生を先に進める意味を与える、と。私の専門分野で言えば、学術的には、”システム思考”と言います。臨床的には、”メタ認知”と言います。去年、うつ病のためのメタ認知療法が、我が国にも輸入されました(その時の拙稿は、これです)。自分の専門分野に、いろんな角度からヒットするのが、実に面白い。


話の本筋ではなかったけど、やっと、これからどう生きれば良いかが、氷解した気がするのです。
対人支援の専門職として、どういうスタンス・人間観を持つかというのは、とても大事なことで、それによって、何をいつどのように行うかが、変わってきます。それを自覚して、意識的に行動するのと、漫然と自分流の正義感で活動するのとでは、天地雲壌の違いが生じます。
ましてや、それを指導する(スーパーバイズする)立場なら、後者は論外だと思っています。自分のスタンスに合わないからといって押し潰すのは、対人支援うんぬん以前に、人間としてどうなのか問われると思います。

プライベートでも、たぶん同じなのでしょう。私は、プライベートを仕事で切り売りするつもりはないので、少なくともSNSで、個人的なストーリーを話すことはしませんが。


イベントの冒頭は、下記から見ることができます。


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精神科キャリアカウンセラー。メンタル疾患からの復職を目指す方の、キャリア構築支援をしています。精神保健福祉士、国家資格キャリアコンサルタント・CDA、WLBコンサルタントなどのライセンスを保持。ホームページ→http://s-yam-gucci.jp
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