「障害者殺人」植松被告の思想を、理詰めで喝破する


先週の週刊文春(2020年1月23日号)に、

「人間とは認めない」「まだ死にたくない」
<相模原・障害者19人殺害>
植松聖との360分

という取材記事がありました。

本稿では、これを土台に、植松聖被告の思想を超克したいと思います。


ざっと、インターネット上で見られる、植松被告に対する反論を、まとめてみました。

しかしながら、感情論で反論しても、植松被告を賛美する人に対し、どれだけの説得力があるでしょうか。現実として、出生前診断で障害がわかった時、中絶を選択するケースはごまんとあります。少なくとも、日本での規範意識では、これを容認しています。
植松被告に対する、代表的な賛同記事を揚げておきましょう。

記事の目次だけ引用すると、

・植松さんの主張
・知的障害を理由に裁かれないという事実
・障害者の犯罪率の高さ
・彼らが家族や周囲に与える苦しみ
・遺族は障害者の家族だとばれることを嫌がった
・職員が置かれている過酷な労働環境
・18時から翌朝8時半まで働き、休憩は2時間
・知的障害者は生きたいと思っているのか
・周囲の評判はよかった植松さん
・主張は正論だが実行の方法がマズかった
・twitterの意見

これは、いろいろなことを、ごっちゃにしています。例えば、心神耗弱と知的障害を混同していたり、社会的偏見を所与のものとして扱っていたり、支援と労働の課題を混ぜてしまっていたり、などなど。理屈には理屈で対抗しないと、説得することはできません。本稿では、理詰めで、植松被告の思想に反論したいと思います。


私が、週刊文春の記事で目に留まったのは、「自分で意思表示のできない障害者は、犬・猫のペットと同じだ」という考えです。”きれいごと”を抜きにすると、これは結構グサリと来るのではないでしょうか。感情表出による意思疎通なら、動物でもできるという理屈です(あくまで”理屈”ですから、「お前は、障害者を動物扱いしている!」といった反応はしないでくださいね)。

犬・猫だって、動物愛護法があります。ただ、動物が人間と違うのは、人間の理屈や事情で”駆除/殺処分”をすることが、社会規範上、容認されていることです。

では、人間と動物とは、本質的に何が違うのか?ということになります。ここで、宗教的なことを抜きにして考えると、戦争が絶対悪であるのと同様に(ここでは、戦争論には深入りしない)、人間同士が、各々の理屈で殺し合いをすることは、善に反するのです。善というのは、人間にのみ与えられた思考(哲学)です。時に共食いをする動物とは違うのです。

植松被告に同調する意見の中には、障害者に自活能力がないことを揚げるものがあります。しかし、では、生活保護を受けている人とか、〈心失者〉ではなくても、何かしらの障害を持って、それがない人は、どうなのか?ということになります。

これの反論として、よく言われるのは、交通事故に遭遇するなど、何かがあった場合に、”健常者”は、容易に”障害者”になりうるということです。だから、健常者と障害者とに線引きをするのは、適切ではないと。
しかしながら、発達障害のようなグレーゾーンがある障害はレアケースで、多くの場合は、厳然とした断絶があるのが事実です。だから、この議論は、あまり説得力がないと、私は思います。

結局、人間は生きているだけで、他の動物とは違う本源的な価値があるのだという命題に行き着きます。これは、ほとんど宗教の観念ですが、近代社会がそのような絶対命題を土台にしないと成立しないのも事実です。江戸時代の日本では、”切り捨て御免”が容認されていたのですから。

まとめると、植松被告の行動は、単に社会規範に反しているというだけでなく、人類の有史以来の叡智の結果である、近代社会に対する挑戦なのです。従って、このような犯行は、断じて容認することはできないのです。

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精神科キャリアカウンセラー。メンタル疾患からの復職を目指す方の、キャリア構築支援をしています。精神保健福祉士、国家資格キャリアコンサルタント・CDA、WLBコンサルタントなどのライセンスを保持。ホームページ→http://s-yam-gucci.jp
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