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『幻想と旅をする』前編

 その電話が鳴った時、あたしはホテルにいた。
 更に言えば自分を誘った男がシャワーを浴びている裏で、今日はまともな下着を付けてきたかしらとはしたなくスカートをめくっているところだった。
 鞄の中でケータイが震えて、一瞬だけ迷う。画面に表示された番号が自宅の固定電話だったから。
 帰りが多少遅くなったところで心配する親ではない。逆に言えば、こんな時間の電話には何か大事な用件があるのかもしれない――逡巡を約二秒で切り上げてあたしは平静を装った。
 どんな用件にせよ、ここがホテルと知れるのはまずい。
「もしもし?」
『奈々子、落ち着いて聞きなさい』
「は?」
『萩原くんが亡くなったって』
 あたしは一瞬にして母の言いつけを破ってしまった。つまり、落ち着いて聞くことなどできやしなかった。
「え、何、どういうこと?」
『詳しいことは聞けてないの。萩原くん、東京だったんでしょう? だからご家族もまだ状況がよく分かっていないみたいで……ただ、奈々子には連絡した方がいいんじゃないかって、取り急ぎ彼のお姉さんが』
 嘘だ、と喚くことができない。
 母がこんな嘘を吐くはずがないから、母の言葉を理解した時点でそれは事実だった。
『それで、あんた喪服持ってなかったでしょ? お祖父ちゃんの時は制服だったし。買いに行くなら明日――』
「今日、今から買う。まだお店もやってるでしょ」
 そのまま家に帰ってしまったら、葬儀に出るための服をわざわざ買いに行く気力など、もう残ってはいないだろう。
『……分かった。好きになさい』
 電話を切って部屋を出ようとしたところで、あいにく男と鉢合わせてしまった。あたしとやる気だった男と。
「ごめん、帰る」
「は?」
「その……訃報が入って」
「ふほう?」
 とっさに漢字変換ができなかったらしい。あたしは婉曲的な説明を重ねる。
「これから喪服を買いに行くの」
「……病院じゃなくて?」
「はい?」
「親が倒れたから病院に行くって、使い古された嘘なんだけど」
 皮肉を言われるのも無理もない。
 この部屋に辿り着くまで、彼はそれなりに紳士的な態度をとっていた。引き返すなら今と言わんばかりの予防線も用意されていた。それをのこのこ踏み越えてきた女が直前になって逃亡を図っているのだから、傍から見ればさぞ滑稽であろう。
「親じゃないし病院でもない。訃報だって言ったでしょ。本当に喪服を買いに行くの」
「で、誰が死んだって?」
 直接的な言葉を躊躇いなく口にする、その神経に辟易した。もう一度同じ問いが繰り返される前に遠距離恋愛中の恋人であることを告げる。
「……嘘だろう?」
「嘘じゃない」
 深く溜め息を吐いて、彼がドアの方を一瞥する。最後にごめんなさいと呟いて、あたしは一目散に駆け出した。

 はるか遠くにあると思っていた東京は、電車の急行を乗り継いで二時間もあれば行ける場所だった。新幹線を使えばもっと早く辿り着けるという。
「田舎娘丸出しだな」
 都会のビル群に気圧されているあたしを見て、鹿目雅博が笑う。
「そう言うあんたは東京来たことあるの?」
「もちろん」
 どこへ行くとも告げずに歩き出す。その無駄に背の高い後ろ姿を追うしか、今のあたしにできることはないのだった。
「ねえ、まだ電車に乗るの?」
「お前なあ、東京ったって広いんだよ。萩原が住んでたのはもっと西の、たいして都会じゃないところ」
「何であんたが知ってんのよ?」
「むしろお前は知らないのか」
 完全に馬鹿にしている。あたしだって彼の東京の住所くらい知っている。ただ、それがどんな場所なのかを知らないだけで。
 ――俺と東京に行かないか?
 鹿目がそう言い出したのは二日前、太一の葬儀の席だった。
 自称、萩原太一の親友で、図々しさは天下一品で、太一のお姉さんから必要な情報を全て巻き上げていた彼は、あたしが同行してもしなくても既に腹は決めていたようである。放っておいても良かったけれど、葬儀に喪服も用意できない男に友人代表を名乗られるのも癪で――あの紺のスーツは、多分、大学の入学式にでも着たものじゃないだろうか――結局ついていくことにしたのだ。
「お前さ、萩原が死んだ場合どうするの?」
「……はい?」
 唐突に口を開いた鹿目は、電車の中吊り広告を眺めながら間延びした声で質問を続けた。
「将来の夢は萩原のお嫁さん、とか言ってたんだろ? もう叶いっこないじゃん」
 恋人同士の甘い冗談を友人に漏らす太一も、それをしれっと本人の前で口にする鹿目も、ちょっと信じられない。
「ていうか、将来の夢がお嫁さんってお前の頭は小学生か」
「大きなお世話!」
 思わず声を荒げると、鹿目は動じることなく人差し指を口元へ持っていく。
「ここ、公共の場」
 まったくどうかしていた。この男に誘われるまま、東京まで一緒に来てしまうなんて。
 電車を降りると予告通り都会のビル群は消えていて、代わりにあまり背の高くないマンションと地元でも見たことのある商業施設が目に付いた。そんな市街地を抜けて現れたのが、どことなくアーティスティックな雰囲気の漂う門扉だ。やはり東京の大学は建物からして違う、気がする。
「これからどうするつもり?」
 鹿目は腕時計にちらと目をやり、次いで辺りを見回した。誰かと待ち合わせているのだ。と、この男の手配りの良さが知れる。
「萩原のお姉さんは大学経由でこっちの知り合いと連絡を取っていた。葬式に来るならって話もあったのに結局流れたらしいから、俺たちが出向いて挨拶するのはお姉さんとしても大歓迎だったわけ」
「何であんたが?」
「お前が自分から動いていれば、まずお前にいった話だと思うけど?」
 その答えに返す言葉を失う。あたしは自分を慰めることでいっぱいいっぱいだった。
 現れた待ち合わせ相手をあたしにも見つけられたのは、彼らが白い造花のカーネーションを携えていたから。
「この度は、えっと……」
 語尾を濁してその花を差し出したのは男女二人組の女の子の方。
「本当はもっとちゃんとした花束を用意したかったんだけど、持ち帰らせること考えたら悪いと思って」
 男の方が言い添える。初対面の第一声からタメ口ということは、我々が太一と同い年との認識が既にあるのだろう。
 まずはお互いに自己紹介をして、こちらが地元の中高と同級生であること、相手が大学の学部及びサークルの同期であることを確認し合う。二人の名前は遠野千佳と河北壮介といった。
「サークルって、何の?」
「お前、何も知らないんだな」
 真っ先に鹿目に言われた。やっぱり馬鹿にしている。
「あ、あの、文藝同好会です。小説とか書く人もいるけど大抵は読む専門。萩原も書いてはいなかった――よね?」
 河北くんが慌てて答えて、最後だけ隣の彼女に尋ねる。遠野さんが黙って頷く。
「お二人が遺体の第一発見者って聞いたけど」
 今度は鹿目が文脈も言い回しも無視して切り込んだ。遠野さんはさっと青ざめて俯いたけれど、河北くんはミステリーみたいだと案外あっさりしている。
「萩原が大学休んで一週間くらいかな。遠野が心配だ、心配だって騒ぎ出して。確かに気付いたら音信不通でさ、普段真面目に授業出てる奴だったから、体調悪くても欠席の連絡とかしてきそうなもんだろ? これが俺なら一ヶ月休んでも放置だけど」
「あ、多分それ俺もだ」
 挿し込まれた男たちの冗談に困惑する。苦笑すらできない。
「それで大学の教務課に相談して、そこからアパートの管理人さんまで繋いでもらって、ようやく家に入れた。だから第一発見者は俺たちと、大学職員と管理人の四人」
 萩原太一は急性の心不全で亡くなったらしい。
 一人暮らしの彼は自宅で倒れたまま、冷たい床の上で一週間近く放置されていた。十九の若者がまさか孤独死するなんて、誰も思ってもいなかったことだ。
 ふと見れば、遠野さんが目にうっすら涙を浮かべている。きっと優しい子なのだろう。そんなに心配してくれたなんて面倒見もいいのかもしれない――あれ?
 もしかして、遠野さんは太一のことを?
 あたしは改めて彼女を見つめる。きれいな暗めの茶髪のショートカット、田舎娘には絶対に手を出せないオシャレな重ね着のシャツとミニスカート、もちろん化粧もばっちり決めている。
「萩原くんは、こっちに彼女とかいたのかしら?」
 即座に反応したのはまたしても鹿目で、あたしは彼の視線と自分が口にしてしまった言葉に居たたまれなくなった。
 分かっている。
 もし仮に遠野さんが太一を好きだったとしても彼が相手にするはずはないし、今は嫉妬なんかしている場合ではない。
「さあ、聞いたことないけど。なあ?」
 河北くんは同意を求めるように視線を遠野さんに向けた。だから彼女も黙って頷く。
「そっか、ふうん」
 棒読み調で鹿目が言う。疑っているのかもしれない。
 太一の大学生活のことをもっともっと知りたいはずなのに、なかなか口を開くことができない。遠野さんの視線からも似たような思いを感じたが、結局あたしたちの会話はほとんど男二人に終始していた。
 彼らに別れを告げた後、太一の家に向かうあたしたちを河北くんだけが追いかけてきた。それを言わねば気が済まなかったのだと、開口一番で理解した。
「なあ。さっきの質問はないよ」
 あたしだってなかったと思っている。それなのに、鹿目がわざわざどういう意味かと聞き返し、河北くんが憮然とする。
「見りゃ分かるじゃん。遠野の奴、萩原のことが好きだったんだよ。何であんな追い討ちかけるようなこと聞くかな」
「で、君は萩原に彼女がいたと思うか?」
「分かんねえ。あいつ、そういうこと言わなかったし」
 遠野さんの気持ちは見れば分かると言うのに、河北くんはあたしが太一の恋人だということは全く分からないらしい。
「遠野さんは本当に片想いだったのか?」
「は?」
「君の知らないところで付き合っていたかもしれないじゃないか」
 河北くんは考える素振りもせずに、ないと言い切った。
「遠野は幻想に恋してるって、女子が話してた。付き合うことも振られることも、もはや幻滅することさえできない。伝えられなかった想いだけがこんもり残ってるんだとさ」
「なるほど」
 納得した鹿目は何故かあたしに追い討ちをかける。
「お前と同じだな」
 言うに事欠いてこの男は。
「片想いと実際に付き合ってるんじゃあ、どっちが残酷なんだろうな?」
 その台詞で河北くんも状況を理解したようで、すいませんでしたと叫んで去っていったのだった。
 あたしはきっと鹿目を睨みつける。
「何がしたいの?」
「墓穴を掘るなら埋葬してやろうかと」
「あんたねえ!」
「いや、お前じゃなくてさ」
 彼は何食わぬ顔であたしの頭にポンと手を乗せた。
「けどまあ、どうしても萩原の後を追いたくなったら俺が殺してやるよ」
「……え?」
 その不敵な笑みにひねくれた優しさが隠れているのか、あたしには判断が付かなかった。

                              <続く>

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