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生きるってクリエイティブ。

『伝える・伝わる』について様々な人とディスカッションしていた時に、同じような論点として出てきたのが、『演者か消費者か問題』でした。

私は以前から常々、仕事中は誰しもが演者であるものだと思っていて、自分という配役を与えられ、TPOという背景を背負っていかにその場でインプロを上手く出来るのかが仕事の成否とイコールであると考えています。

これは経営者は言語化しているかしていないかだけの違いで似たような考えであることが多いなと感じています。
よく言われる俳優の孤独と経営者の孤独は結構近いものなのではないかと勝手に想像しています。

ある人とそんな話をしたあとで、一つのYou Tube動画を勧められました。
映画監督と感想家(評論家ではない)の対談動画で、すごく興味深く拝見させていただきました。

消費者か最終クリエイターか。

芸術の作り手は、自分が生み出した芸術について野暮な説明をしたりはしないし、自分が作品に込めた想いと違う解釈をされたとしても、それは違うよなんて言って回ったりはしない。

なぜなら、芸術の作り手が見ている世界と、その世界から創り出された作品を見た個人が感じた世界は全く違うものだという前提に立っているからじゃないか?というような考察をその動画の中でしていました。

これは、『伝えるは伝わらないしかない。けれども伝わるものはある。』と同じことを言っているなぁと私は受け止めました。

そして、その作品を見た個人の生き方は2種類あって、ただの娯楽として芸術を消費する消費者としての生き方と、受け止めた芸術を自分の中に生かしていく最終クリエイターとしての生き方があるよねと。

この考え方はすごく納得感があって、そういうことだったのかと、ストンと自分のお腹の中に落ちてきたような気持ちがしました。

芸術を見た者が何を受け取り、何を実感するかは作り手の世界とは全然別の話で、それぞれが受け取ったと感じたものを文字通り自分たちの生活の中に生かしていく。

どこでどう生かしているかと言えば私の場合は圧倒的に仕事で、仕事ということはつまり私役を演じている時の演技の幅を広げてくれているのが芸術だということだったんだなと。

でも解釈違いかもしれない世界観を各所で、それこそ最終クリエイターの数だけ作品の意訳が演じられることについて、作り手側はどう思っているのだろう?という疑問が湧き上がりました。

すると感想家の人も同じことを疑問に思っていたようで、同じ動画の中で映画監督に直接質問してくれていました。
「僕らみたいな存在を実際どう思っていますか?」と。

感想には感想なりの価値がある。

その動画の中で監督はこのように仰っていました。
自分が意図していなかった解釈を感想で投げかけられることで初めて、「あぁ、この作品ってそうだったんだ」って気がつくことだってある。

作品に正否を決めない、受け取られ方を作り手が決めなければ、受け取った人の数だけ世界が広がるから、その広がりこそを良しとする。

解釈の違いは間違いではなく、その違いを受け取った人がクリエイトしてくれれば、全て豊かさに変わっていける。
だから最終クリエイターの存在はすごくありがたいよね。と。

これらの監督が仰った一言一言から伝わるその器の大きさが、あぁ、芸術を作り出せる人っていうのはすごく懐が広いんだなと、作り手の大きさを実感せずにはいられませんでした。

そして、伝えられなかったときの受け止め方を教わった気がしました。
伝えられないしかないから諦めるのではなく、『伝わった何か』から生まれる物語で自分の世界と相手の世界が少しでも豊かにできたらいい。

どこまで行っても自分の世界と相手の世界は交わらないのだけれど、自分の中の芸術を交換することでお互いに豊かになることは出来る。
なんて希望が持てるオチなんだ。

こうして私の中の『伝える・伝わる』を考える日々は、思ってもみないハッピーエンドに辿り着くことができました。

これを受け取ったどなたかが今日より少しでも豊かな明日をクリエイティブしていけることを信じて、今後もこうして何かから自分が勝手に受け取ったものや実感じたものを言葉にしていこうと思います。


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