「私を赦さないで」~茅原実里「a・b・y」のヘヴィメタル精神、あるいはもうひとつの「詩人の旅」
円環構造、原点回帰、縮小再生産
「Re:Contact」は、茅原実里のランティス時代のファーストアルバム「Contact」と関連づけたタイトルだ。それが意味するところは、音楽的な「原点回帰」そのものであると同時に、変化し続けてきたアーティスト・茅原実里に終止符を打つという強い覚悟にも思える。
よい物語は円環構造で終わる。
一方、ヘヴィメタルを聴いてきた人間は「原点回帰」という言葉に身構えてしまう。それは、音楽性や楽曲に行き詰まりを感じたアーティストがたどり着く共通の袋小路であるからだ。
もちろん、恐竜のように進化の袋小路で絶滅するよりははるかにマシだ。だが、「原点回帰」のアルバムに制作されるアルバムは、何よりも大きな敵と戦わざるを得ない。
それは、自分自身の過去の名曲たちだ。
アルバム「Re:Contact」では、愚直かつ正直に、積極的な意味を持って過去の楽曲と向き合い、取り入れている。全体的な雰囲気、個別の歌詞、譜割りなど、過去作品をクリエイター本人がオマージュし、今の茅原実里が歌唱する。
ここ数年で、そのようなセルフオマージュの喜びを感じさせた楽曲として真っ先に挙げるべきは、Helloween「Pumpkins United」だ。
全盛期のアルバム「Keeper of the Seven Keys」以来、約30年の間別離していたメンバーが復帰。脱退に至るまでの数々の恩讐を乗り越え、しかも現行メンバーもひとりも脱退せず迎えた奇跡の楽曲。
音楽性も個性も異なる各世代のボーカルが一堂に会し、それぞれの得意なパートで全体に貢献する。歌詞にも「Walls of Jericho」「Doctor Stein」「Wake up the mountain」と、時代をまたいだ名曲の数々が載る。
ただ、これはバンドの話であり、そして時代を経たひとつの奇跡でもある。いま終わろうとしている茅原実里を、それと同一視することはできない。
いま茅原実里がやっているのは、いま終わろうとする物語を、自ら振り返り形に残すことだ。時間によるノスタルジーは存在しない。むしろ時間こそが、ファンも彼女をも楽曲をも、追い立ててゆく。
無数の制限の中で作られたであろう「Re:Contact」の楽曲たちは、過去の名作の縮小再生産に聞こえてならない。
決して縮小再生産が悪いわけではない。ファンが求めた楽曲を繰り返し作っていくことだってそのひとつだ。ただ、このミニアルバムに入った楽曲は「本歌取り」の趣が強く、20年後にこの楽曲から入ってくるファンを想像することが難しいという感じは否めない。
有名アーティストほど、最新の新譜が刺さらない経験を味わわされることが多い。過去の成功を再現しようとする(そして失敗した)ためか、それとも新ジャンルへ変化しようとする(そして失敗した)ためか、名前の割に刺さらない。時には完全に既存ファン向けに作られていることもある。
その点から考えれば、ついに茅原実里もその域に達したか……ということなのかも。
それでも記録しておきたい。「a・b・y」という楽曲の異質な重さは。これは最強かつ最狂のヘヴィメタルである。
デジタル楽曲と、その中に際立つ不在
この楽曲はあまりにもデジタル過剰だ。キラキラ感あるシンセと無機質なデジタルビートが歌をがっちり挟み込んで離さない。ミュージシャンクレジットに唯一残るギター・神田ジョン氏のギターすら、硬質な世界に飲まれて、Pro Toolsの1トラック以上の存在にはなり得ないように構成されている。
いくら「Contact」がデジタル感の強いアルバムだったとしても、ここまでやりすぎてはいなかったはず。
過剰であればあるほど、その後ろには不在が際立つ。たとえば「シン・ゴジラ」に天皇が出現しなかったように、不在であるものは、不在であるが故の存在感を、無から放つ。
ここでの不在は、生楽器そのものだ。言い方を変えると、茅原実里とデジタルしか、この楽曲にはいない。ほかに人が立ち入る余地はない。デジタルの荒野である。
そして、「本歌取り」たる「a・b・y」の参照元は、明らかにアルバム「D-Formation」の楽曲「暁月夜」だろう。
これもデジタルの強いナンバーだが、同時に、過剰なまでにストリングスが密着し併走する楽曲でもあった。茅原実里楽曲の最大の特徴としてフィーチャーされるこの響きは、飄々と、バックバンドの役割を飛び越える。悪魔に魂を売ったと噂される伝説のヴァイオリニスト・パガニーニばりの超絶技巧ソロが、「暁月夜」の頂点である。
ヴァイオリンというよりはギターソロのスウィープに近い五連フレーズを決め、軽やかに弦を吹き鳴らし、イングヴェイ・マルムスティーンのようなハーモニックマイナーで下降してゆく。デジタル楽曲という枠を完全にぶち破り突き抜けたフレーズは、茅原実里楽曲でなければ絶対に聴けないフレーズだ。
ライブでは、楽曲の最終パートで茅原実里と向かい合い、
この言葉を真っ向から受ける栄に浴した。
彼はもう茅原実里と共演することはない。その大きな不在が、アルバム全体に影を落とす。
アルバム「Re:Contact」は、ヴァイオリニスト・室屋光一郎が参加しなかった、最初で最後のアルバムである。
この不在感をどうたとえればいいか。
主観的な衝撃でいえば「リッチー・ブラックモアも、イアン・ギランもいない、Deep Purple」だろうか。
トミー・ボーリンという悲劇のギタリストがいた。デヴィッド・カヴァデールとグレン・ヒューズが、どんどんDeep Purpleの音楽を変えてゆく中で加入した彼は、ドラッグによりまともに演奏できていない。熱狂するこの会場は、日本武道館である。
客観的な言葉で表現すると、スラッシュのいないGuns N’ Roses、あるいはランディ・ローズを失ったOzzy Osbourneというのが最も妥当な気がする。ジェフ・ハンネマンのいないSlayer、デイヴィッド・エレフソンのいないMegadeth、ティモ・トルキのいないStratovarius……。
ボーカルが脱退した例を考えるのは反則だろう。アンドレ・マトスのいないAngra、ファビオ・リオーネのいないRhapsody of Fireなんかは……
ここまで挙げた例は、どれも実際に起こったことだ。Megadethは現在進行形だが、どのバンドも形を変えて活動している(Slayerは2019年に活動停止)。
情熱と時間が、かつての傷を癒してくれた。バンドはまた前へ進むことだろう。
ともかく、そんな中でもアルバムは作られた。少なくともファンは分かっている。だが過去を知らない新規リスナーには、この不在感の持つ重みがわからないかもしれない。
そして、その不在感に平手を張るような歌詞が、「a・b・y」の最も強烈な要素だ。
「私を赦さないで」~もうひとつの「詩人の旅」
サビの第一声がこれだ。
ここで「私を赦さないで」という重い言葉に気を取られてしまうが、私は「叫ぶように愛して」に力点を置きたい。
愛はさまざまな形を取る、といわれている。愛がこじれて嫉妬につながる物語は、ここまで追いかけてきたファンならば、アルバム「Innocent Age」で追体験したはずだ。それが憎しみに変化することもある。
愛と憎しみが背中合わせであるとしたら、憎しみはどこかで愛に戻ってくる。しかし、忘れた時には、感情は永遠に戻ってこない。だから「私を忘れないで」なのだ。
愛も憎しみも、対象があって初めて成立するものだ。対象があり続けて、認識され続ける限り、愛として報われる可能性は消えない。
そしてもうひとつ、強い意思表明が発せられていることに気づいただろうか。
「私以外には私を赦せない」と言っているのだ。同時に「自分の人生は自分以外に絶対決めさせない」という決意でもある。
想像してほしい。勝手に愛情を押しつけて、勝手に崇拝して、勝手に偶像視しておきながら、スキャンダルが出ればCDを買わなくなり、ライブに行かなくなり、アニメに出れば文句を言う。そんな人たちは大勢いる。
逆に、CDに勝手に感情移入し、音楽を何百回も聴き続け、大金を費やして全国遠征し、沖縄やハワイにまで行く人もいる。中には「○○はメタル」なんてバカな妄想を言う奴もいる。
女神という偶像に振り回されて四苦八苦しているのは、何よりも女神本人だったのではないか。
「赦さないで」とともに「忘れないで」「愛して」と彼女は叫ぶ。偶像は人間宣言をしたのかもしれないが、偶像として見られることを否定したわけではない。ただ、すべての立ち位置が変わっていっただけだ。
与えられた役目としての偶像から、自ら「なる」偶像に変わる時まで、ファンに手助けできることは何もない。できることは、その存在を刻むことだけ。
https://open.spotify.com/track/0YSpukYiBjcEmnIv1pxF7X?si=2ae3cbe8607f42c6
大きな不在をそのまま形にしたようなアルバム「Re:Contact」の先には、何が待ち受けるのかは分からない。
しかし、あのときの茅原実里が静かに活動を終えていては、待つ者は誰もいなかっただろう。それだけは確かだ。
オイディプス王のごとく、贖罪の旅へと、詩人は向かう。私はその姿勢を、ヘヴィメタルだと称えたい。