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パリで催涙ガスまみれになって考えたこと

 前の記事では、パリのメーデーに参加した時に起こった出来事(特に催涙弾ぶちこまれた事件)についての出来事の報告がメインとなったのだが、今回はそれを踏まえて、僕が思ったことや考えたことをまとめてみようと思う。

(前回の記事を読んでいない方はこちらを先にどうぞ↓)

催涙弾、それは苦しい

 なんといっても、もっとも強烈に学習させられたのはこれである。催涙弾はやばい。催涙弾というのは、(主に途上国などの)民主化運動などの場面で、警察や軍によって使われてきたし、今でも使われている。日本でも、学生運動が激しかった時代や、たとえば三里塚闘争(成田空港建設反対運動)などで機動隊によって使われていたものの、現在では使われていない(たぶん)。日本で一番最後に暴動が起こったのは、2008年に起こった大阪・釜ヶ崎でのもの(第24次西成暴動)であり、その際に放水車が出動している映像は見たことがあるが、催涙弾が使われたとは聞いていない(もっとも、日本の機動隊も装備品としては今でも持っているのだろうが)。なので、今の日本ではあまりなじみがないものである。

 これまで、海外のデモにおいて催涙弾が使われている様子を映像で見ても、「なんか煙ってるなー」「目にしみるのかなー」という程度の感想しかなく、そこまで強い印象を持っていなかった。しかし、実物はそんな甘いものではなかった。詳しい説明は前回の記事で書いたので繰り返さないが、直撃した場合、粘膜が強烈に攻撃され、呼吸困難になる。それによって抗議者の行動力はゼロになる。それほど威力がある、凶悪な科学兵器なのである。この体験を通して、国際ニュースでデモ隊が催涙弾を食らっている映像を見た際の、自分の中の共感力が爆上がりしたのではないかと思う。

 ところで、今回の件を経て、帰国してから初めて知ったことだが、(毒ガス兵器と同様に)戦場での催涙弾の使用は、国際条約によって禁止されているのだという。しかし、にも関わらず、「暴動鎮圧」などの名目で、市民に対しては催涙弾を使用することは認められているのである。全く意味がわからない(※)

 ちなみに、僕と、同行したO本くんが催涙弾の直撃を食らって撤退したあとに話していたことは、(これはわからなくても別に良いのだが)「(ファミコンゲームの)『ロックマン2』のクイックマンのステージみたいなもんだよね」ということであった。要は、何も知らないプレイヤーを一撃で仕留めるような武器が、なんの警告もなく、容赦なくぶちかまされる状況に、「初見殺し」の真髄を見たのである。これはゲームではないので、とても一機だけでは立ち向かえない。今でも思い出すと、喉元が苦しくなってくる。

(※)1925年のジュネーヴ議定書(窒息性ガス、毒性ガスまたはこれらに類するガスおよび細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書)による

ブラックブロックは「勇敢」なのではないか

 さて、しつこく催涙弾の威力について力説してみたが、そのようなことを踏まえた時、警察との衝突を辞さない態度というのは、やっぱりすごいのではないか、という素朴な気持ちが心に芽生えた。「ブラックブロックは勇敢なのではないか」ということだ。

 前回も書いたように、暴動ないしは警察との対峙を恐れない(積極的に生み出す)黒づくめの集団(正確には戦術の名前)をブラックブロックと呼ぶ。彼らは、その破壊行動その他によって、他の参加者から嫌われることも少なくない。実際、彼らは「壊し屋」などと侮蔑的に呼ばれたり、「ただ暴れたいだけ」と言われることもある。

 しかし、警察車両やグローバル資本の店を破壊することが仮に楽しいとして、ただそれだけのために、あのリスクを負おうと思うのか、という疑問も生じる。参加者の中には、衝突前提で簡易版のガスマスクやゴーグルを持参している人もいた。しかし、催涙弾という兵器はそんなものでは簡単に無効にはできない。なぜなら、外気に触れている肌などからも効果が出るため、ヒリヒリするダメージなどは防げないからだ(もちろん僕たちが知らないだけで、催涙ガスのダメージを軽減・回避するテクニックがあるのかもしれないが)。だいいち、機動隊の武器は催涙弾だけではないし、もっと物騒な武器がいくつもある。

 僕が催涙弾を食らっている渦中に「すげえな」と思ったのは、僕たちが慌てふためいて必死に逃げようとしている中でも、そのガス弾を投げ返そうとしたり、蹴り返そうとしている人がいたことである。催涙弾の細かい仕組みはわからないが、ガスを噴射する装置(ガス弾)が、ランチャーのようなものから射出され、それが地面に落ちてガスを吹き出す。だから、その装置(ガス弾)を蹴り返してしまえば、ガスの影響は緩和される。場合によっては警察のほうに飛ばして、警察をビビらせることもできる(おそらく警察もガスの対策はしているから、あまりダメージはないのだろうが)。

 あの混乱の中で、とっさにそのような行動ができるというのは、やはりすごい。そして、それはなにより利他的な行動である。このあたりはシンプルに尊敬できる、と思った。
 そして、これだけのリスクを冒してまで行動しようというのは、やはりそれだけの信念があるのではないか、ということを思わずにいられなかったのである。

誰がブラックブロックを生み出しているのか(無差別攻撃の問題点)

 今回のデモにおける僕たちの被弾は、完全にとばっちりであった。僕らは単に、警察とブロックブロックが衝突していると思われる地点(の付近)を見に行っただけなのに、いきなり無差別攻撃を食らったわけである。そして、そのような体験をした時に抱く感想はただ一つ、「警察ひでえな」ということである。
 日本の公安警察や国家権力が、陰湿に、(ある意味で)「非暴力的」な手法を装いながら、政治的な行動に関心を持つ人間を締め上げ、排除していくのとは対照的に、向こうの弾圧は、言ってみればわかりやすい暴力として現れる。デモ参加者は、資本主義を護持し、エスタブリッシュメント(支配階級)の手先として動く警察を、「目に見える悪者」として感じることができるのである。

 AFP通信の、今回のメーデーに関する記事を読むと、「無政府主義者らは「誰もが警察を憎んでいる!」と叫びながら空き瓶などを投げていた」という報告があるが、これには強く共感せざるを得ない。あんな無差別攻撃を食らったら、そりゃあ警察への不信感を強めるのも当たり前である。

 よくテロリズムをめぐる議論などで言われることだが、テロリストがテロリストになるのには理由がある。それが「正当」であるかどうかはともかくとして、心情的なものや背景というものがある。にも関わらず、それらを一顧だにせず、軍事的な行動(爆弾やドローン兵器)のみで殲滅しようとしても、成功しない。その殲滅作戦の灰燼の中から、新たな恨みや憎しみを持った人物が立ち上がり、テロリストになる。そういう構造がある。だいいち、警察や軍隊による弾圧は、民主主義とはなんら関係がない。

 僕は、ブラックブロックがテロリストだとは思わない(彼らは警察のフル武装と比べれば、ほとんど丸腰であるし、人を殺傷することは全く目的としていない)が、ここには同様の構造があるように思う。少なくとも、警察による強硬な弾圧は、それによって破壊的な抗議行動に賛同するものを増やし、正当化するという効果があるのではないか、と思った。

マッチョなブラックブロックにはなれない

 さて、以上のことを踏まえつつ、活動家くずれ人間としての僕自身の考察を述べたい。ここからが、この文章でもっとも重要な部分である。

 僕は、ブラックブロック的な行動にも共感した上で、黒づくめの格好をして(さらに黄色いベストを着て。笑)パリのメーデーまで駆けつけた人間である。貴重なGWにそんなことするやつも珍しいとは思うが、それはともかくとして……その結果は、何もできないまま、「暴動レベル1」の時点で催涙ガスをくらい、速攻でゲームオーバーになった。これは、破壊行動の程度で評価される空間だったら、あまりにヘタレすぎて、「なにしに来たのよ」と言われても仕方ないレベルである。

(僕が目にしなかった暴動の場面が映っているニュース動画)

 僕たちが退散した後に、暴動は本格的に始まり、車に火をつけたり、警察に投石したりという、激ヤバな事態が展開されていたのをニュース等で目にした。わざわざフランスまで来て、暴動の手前まで足を運んでおきながら、なぜその現場を見ないまま終わったのか。ここに忸怩たる思いがないわけではない。

 しかし、同時に僕が思ったのは、その「暴動にすら参加できない」ヘタレ具合から、むしろ考えるべきことを導き出せるのではないか、ということである。もしも、僕がこの暴動の真っ只中に居合わせ、そして(他のブラックブロックとともに)車の一つでもひっくり返し、銀行のATMでも破壊することに成功したら、それは「大いなる武勇伝」になっただろう。少なくとも、催涙弾を一方的に食らって、なにもしないまま逃げ帰った話よりも、よっぽど「カッコいい」だろう。

 しかし、それはどうしたってマッチョな話である。というか、ブラックブロックのスタイルは、そもそもがマッチョである。社会構造に対する不満の感情を、行動を通して爆発させ、敵対性を可視化することに理があるとして、やはり正面から機動隊と衝突するというのは、こわい。それを可能にするものの一つは、やはり勇敢さ(=男らしさ)を肯定的に評価する、マッチョな価値観である。そして、そのマッチョさによって、社会運動における成否が評価されるとしたら、それはどうしたって「男たちを中心としたマッチョさ(男らしさ)のゲーム」になってしまう。それはいかがなものかと思うのである。

 上でも述べているように、僕は、ブラックブロックの行動に共感する。賛同する。称賛しても良い。そのような「警察との衝突をも辞さない人」がいることには意義があると思う(少なくとも、警察を民衆の味方であると錯覚しているような日本人より100倍マシである)。しかし、その際に「警察との衝突をも辞さない人こそ偉い(すごい)」という価値観が用意されてしまうとすれば、それについては異議を唱えたいのである。

 デモや抗議行動、そしてブラックブロック含む社会運動というのは、社会を変革するためにある。特にアナーキズムにあっては、その際に支配を否定するということ、序列や排除を作らないという水平性(平等性)を重視する。にも関わらず、「マッチョ的なスタイルのブラックブロックこそが運動の理想形である」ということになってしまったら、そこに参加できない人は、ただのヘタレということになってしまう。しかし、僕がもしも今回、破壊活動の中心にいることができたら、そのようには考えなかったかもしれない。むしろ、この場で「ヘタレ」であったからこそ、その課題を考えることができた。それが、今回の体験を肯定的に評価する理由である。

 まとめるとこういことだ。警察と衝突すること自体が悪いわけではない(むしろ、意義もある)。しかし、そうした行動を「こそ」運動の理想とするような態度が、結果として排除するものに僕たちは敏感になるべきではないか、ということである。

 ふと思い出した話がある。東京のシェアハウスの「りべるたん」が神楽坂にあった頃、隣の部屋に住んでいるヤバいおじさんが、苦情を言うために包丁を持って何度か乗り込んできた、という事件があったと聞いている。その時の出来事を振り返って、りべるたんの住人たちは「包丁おじさんと命がけで対峙した俺たち」という連帯感をTwitterなどで回顧していた。
 もちろん、そのような体験や高揚感が生み出す連帯というのはあるだろう(僕が上で書いたブラックブロックへの称賛もそうだ)。しかし、そもそも、そのゲームに参加する資格は等しく用意されているのかというとそうではない。やはり男が中心になってしまう、そうしたルールが無言のうちに存在している時、等しい参加を保障するはずの社会運動の場が、ホモソーシャルな空間(男たちの園)になってないだろうか、という疑問を差し挟む余地はある、ということだ。

 この話に答えはないのだが、ブラックブロックを持ち上げながらも全肯定しない、そのような中途半端な立場でものを考えてみたい。

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