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『ミュータント・メッセージ』マルロ・モーガン

これから読まれる方は、ネタバレするので読まないでください。

 1991年刊行。著者は米国の50歳の女性医師。オーストラリアでアボリジニの青年たちの就業支援をしたことからアボリジニの集団に招待を受ける。そこから3か月に及ぶオーストラリアの大砂漠地帯(アウトバック)横断の体験記。アボリジニはテレパシーを持ち、少ない水で生き延び、自然ととても近い生き方をしている。彼らは我々(欧米風の生活をする人々)をミュータントと呼ぶ。

 発売後、大きな話題となる。しかし、アボリジニから反発があり、アボリジニは独自の調査をして本書が贋作であることを突き止める。出版社は出版分類をフィクションに改め、著者はあとがきにフィクションをほのめかす文章を挿入した。

 贋作(創作)であっても、読んだものがインスピレーションを受ければよいという考え方も広まり、論議となった。そもそも小説というものはそういうものである。本書を否定してしまうと小説を否定してしまうことになる。しかし書かれた民族であるアボリジニ側から強く抗議があることは考慮する必要がありそう。小説ではあっても、真実ではないことを書くことは制限されなくてはならないのかもしれない。

Wikiペディアに掲載されている本書に関するリンク(詳しくはわからない)

http://www.aritearu.com/Influence/Native/NativeWorld/Books/Mutant.htm


<以下は、私が贋作と知らずに読んだ際に線を引いた個所>

真の目的を理解しようとせず、間違っているとか不快だと感じていることは、私の人生にいったいいくつあるのだろうか?

(彼らは)自分の正面にいる人を観察することが大切だと信じている。
その人物はあなたの精神を映す鏡とされるためだ。
その人物の長所は、あなたが自分の中で強めたいと願っている要素だ。
その人物の行動や様子が気に入らないときは、あなた自身もその要素を
持っていて改善する必要があるということなのだ。

大半のアメリカ人は真ん中の立場にとどまりたがっているようだ。
金持ちではないが貧乏でもない。重い病気にかかっていないといっても、
完全に健康ではない。純粋なモラルは持ち合わせていないが犯罪を
犯すところまではいかない。

(一行の先頭に立って道を探さなければならない立場になった人に対して)
「われわれも飢えて喉が渇いている、これはあなたの経験なんだから、
あなたが学ばなければならないことを全面的に支えていくよ」

1年を通して、仲間のひとりが特別な才能を発揮したり精神的に成長したり
部族に貢献したときは祝うが、各人の誕生日を祝う習慣はない。
年を取ることを祝わず、人が向上したときに祝うのだ。

真剣に考えれば、この惑星の破滅をまぬかれる余裕はまだあるが、
われわれはもうあなたがたを助けることはできない。
われわれの時は終わった。すでに雨の降り方は変わり、
暑さは増し、作物や動物の繁殖も衰えている。
われわれはもはや魂の住みかとしての肉体を用意することはできない、
なぜならばまもなくこの砂漠に水や食べ物がなくなるときが来るからだ。

初代の人々は、感情や行動をさまざま試すうちに、
自分がそうしようと思えば怒ることもできる自由意志を発見した。
彼らは怒りを感じる原因をさがしたり、怒りを引き起こす状況を作ったりもした。
悩み、貪欲、欲望、嘘、権力は人がかかずらわるべき感情ではない。

アボリジニには恐怖心がない。ミュータントは自分の子供をおどす。
彼らは法律や刑務所を必要としている。国家の安全さえ他国対する
武力行為で成り立っている。アボリジニよれば、恐怖は動物王国の感情だ。
物が恐怖を生むと、アボリジニは考えている。物を持てば、持つほど恐怖はつのる。

宣教師が自分の子供に感謝することを教えなくてはならないとしたら
自分の社会のことをもっと真剣に考えるべきだ。救いが必要なのは
彼らのほうではないか。

欧米社会でやりとりする贈り物の大部分は、残念なことにアボリジニには
別のものとして区別される。
(一方欧米社会の)故郷には自分では気づかずにたえず贈り物をしている
人々がいることも思い出した。その人たちは、励ましの言葉を贈り、
楽しいときを分かち合い、困っている人に肩を貸し、ただのいい友達でいてくれたりする。

私はアメリカの故郷の人々を思い出した。進む方向も目的も見失ったような多くの若者たち、社会になにも貢献できないと思い込んでいるホームレスたち、自分がおかれた現実から逃避して違う現実に生きたいと願う中毒者たち。
彼らをここに連れてきて、自分の周りに貢献するのがどんなに簡単なことか、そして、自分の価値を知るのがどれほど素晴らしい経験となるかを目撃させてあげたい。

(父親の形見をもらうことを新妻から拒否されて)
もらって当然のものを拒絶されたとき、ものごとの二面性に気づいて成長することができた。

読んでいただけると嬉しいです。日本が元気になる記事を書いていきます。