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『自分軸』 の作り方


昨夜遅く、下の記事を投稿した。

一夜明けて朝からいくものリツイートやコメントをいただいて、その反応の多さに「やはり」と思った。

きっとこの記事を読んで何となく感じていたことに気づかれた人が多かったのだろう。鬱々とした気持ち。外に出せなくて内に秘めるたび、自己嫌悪にも似た感情を持て余す日々・・・。

では具体的に、どのようにすれば『自分軸』は出来上がるのだろうか。

ここから先は、私の体験を交えて、その思考のヒントになればと思う。


昨夜投稿した記事の中に出てくる次の文章を読んで、あなたはどのように感じられただろうか。

他人から受けた心配事や負の感情に囚われることなく、「それはあなたの問題で私には何の影響もない」と自覚しましょう。自分はそのことに傷つくこともなく、揺さぶられることもない。私は私の人生を歩んでいる。と心を新たにしましょう。

この文章に対して「さっぱりわからない」または「そんな風に物事を簡単に割り切れない」と思った人もいるだろう。


私も昔はそう思っていた。そしていつまでもその事に囚われ、自分の運命を呪い、胸が締め付けられるような感情に涙し、不運な自分を哀れんでそのことが一日中頭の中を支配し、長い期間その感情を引きずっていた。


大切に思っていた人にをつかれていた。騙された、と思った。相手は私の感情を弄び、あわよくばこのまま嘘をつき通すつもりだったらしいが、それがバレてしまったわけだ。私はショックのあまり体調を崩した。何とか気持ちを奮い立たせて仕事には出向いたが、あんなに落ち込んだことはないというぐらい、生きる気力を無くした。

食欲はなく、何を食べても味がしない。好きなワインでさえも苦くて体が受け付けない。眠れないので顔色は悪く、瞼がピクピクと痙攣を起こす。みるみる体重は落ち、息をするのも苦しくなる時があった。

この先どうやって、何を楽しみに生きていけばいいのだろう。私は何のためにこんなにもしんどい思いをしてまで生きているんだろう。誰にも愛されない、必要とされていない、私は「嘘をついても大した問題にはならない相手」とみなされていたのだ。そんな人間は誰にとっても価値なはい。騙してもいいと思われるような人間なんだ…私は。

思考はどんどんと暗い渦の中に引き込まれていった。自分は何の価値もない人間だ。そんな風に自分を追い込んでいった。


そんな時、何年かぶりに「会いたい」と言ってくれる古い友人からの連絡が入った。こんな落ち込んだ姿を晒したくない。誰とも会いたくなかった。会ってもこの状態で人とまともな会話ができるとは到底思えなかった。

でも、その一方でその友人と会わなければと思う自分もいた。何故かその数年ぶりの再会がこの闇からの突破口になるような、不確かだが心のどこかで一縷の望みのような一筋の光がそこに見えたような気がした。


友人は私の話を最後まで何も言わずに聴いた後、ゆっくりとこんな言葉を紡ぎ出してくれた。

「彼が嘘をついていたのはverdeさんには何の関係もないことです。それは彼自身の問題であって、verdeさんには何も影響はないんです。解決しなければいけないのは彼の中のことです。彼自身が自分の問題と向き合って、この先悩み苦しむなり、傷つきのたうち回るなりして自分で何とかすればいいことです。そこにverdeさんは介入する余地はありません。何もすることはないんです。これはあなたの問題ではありません。だからこれ以上そこにいる必要もなければ考える意味もないことです。次の課題へ行ってください。もうこの問題は終了させましょう」

私はこの言葉を聞いて目の前の霧がパァーッと晴れるような錯覚に陥った。

なんだ。そういうことか。それなら仕方がない。私には関係のない話だったんだ。私がどう接していようが、どんな言葉をかけていようが、彼には全く何の影響も与えられなかったのだ。何故なら彼の嘘は彼自身の問題で、私がどうこうできるような次元のものではないのだった。

男女間の恋愛感情と彼の嘘は全く別物なんだよ、と彼女は言った。愛が足りなかったとか、思いやりが足りなかったという感情論ではなく、それ以前に彼という人格に想像のつかない隠れた問題が潜んでいるのだと。

それはとても根が深く、彼自身ももしかしたら気づいていないかもしれないという。

そこから私は自分の気持ちを切り替えることだけに集中した。自分の内側に目を向け、それまで無理をしていた心を少しずつ解きほぐしていった。嘘の世界にいた私は確かに幸せだった。その感情には何の嘘もなかった。だったらそれはそれでいいじゃないか。その時の自分の感情まで否定することは無意味なことだと知った。幸せだった。それだけでいい。そう思えたらそこからは簡単に抜け出すことができた。


人が人と出会う時、何かしらの運命のようなものを意味付けたくなる。「引き合う」なんていう言葉もとても魅力的だ。だが、全てがそうではない。出合頭の不慮の事故だっていくらでも起こり得る。それにいつまでも囚われているのはなんて無意味で愚かなことか。



以前の職場で働いていた時の上司は、人を揺さぶるのが大好きな人だった。

口癖は「大丈夫かぁ?(バカにしたような口調で)」「元気ないなぁ!(叱責するような口調で)」「なんかあったの?(大袈裟に驚くような口調で)」

朝、顔を合わせた瞬間、大きな声でこれらの言葉をいきなりぶつけられる。その時どんな気分だろうとビクッとなって一瞬驚きとともに言葉を失う。そして動揺した心で「いえ、そんなことありません」というのが精一杯だった。最初のうちは。

揺さぶりをかけるのが好きな人間というのをその職場で初めて知った。それから何年もかけて人間観察していった結果、私はある答えを導き出した。

その上司は自分に自信がない人だった。そして一人では何も決められない性格だった。思ったことを瞬間的に言葉にして出してしまうことによって、たくさんの人を傷つけていた。それが余りにも日常的なので、周りの人たちは「まぁ、仕方ないよね、あの人はそういう人だから」と諦めの境地に至るのだ。理不尽がデフォルトだから、誰も何も言おうとしない。だから誰も彼女には本音を言わない。心から信頼を寄せる人間は一人もいなかった。彼女は自分の意見と反対、または違う意見を言う人間は敵とみなした。そして一度貼ったレッテルは二度と剥がさない。思い込みが激しく、一度の失敗を何度も何度もしつこく責め立てる。

だから上司には友達もいなかった。そして彼女は誰のことも信用していなかった。みんな一線を引いた上での付き合いしかしない。だから彼女はいつも孤独で孤立していた。そして威厳を保つために、上から押さえつけるような物言いが癖になっていた。頭にガツンとやってビビらせて、言う事を聞かそうとしていた。外部の人間に対しても同じだったから、影では恐れられ、避けられていた。

寂しいだろうな、と思う。だがそれは私の問題ではない。それは彼女の問題で私がどうこうできることではない。なので彼女の揺さぶりの言葉には何の力もなく、私には何も影響がないということを悟った。それからは朝一の揺さぶりの言葉にも軽々答えられるようになった。


人から受けた黒い言葉に傷ついて落ち込むことほど嫌なことはない。

でもその言葉は本当に自分に向けられた自分の問題だろうか?

嫌な気分を与えられたことにフォーカスしてしまうと、そこから気持ちを切り替えるのは容易ではない。

そうではなく、「これは私の問題ではない」と気づくことにより、その沼から簡単に抜け出せるようになる。

そしてそれと同時に自分の吐いた言葉によって傷ついた人はいないかということは常々気にかけておきたい。うっかり吐いた何の作為もない言葉も、人によっては鋭利なナイフになる可能性はゼロとは言えないのだ。

想像力を働かせて。揺さぶられないように、揺さぶらないように。


自分軸』は起こったことに対して自分がどのような思考を持つのか、ということ。相手の言葉に対して「私はこう思う、だからあなたとは違う」と言うことをはっきりと悟れること。口に出して言わなくてもいい。口に出せば争いになる。無駄な争いは不毛だ。争うことが目的ではないから。

そして『私は揺さぶられない』と心の中で唱えること。これはとても簡単だが意外に効力があるのだ。そこには決意覚悟があるから。自分の意思言葉で自分を保つ。これはとても大切なこと。

そうしていくうちに生まれる感情は、自信に繋がっていく。自信が持てると自分を愛せるようになる。そこから初めて、愛は外側へと向けられていく。


自分を愛せないと言う人は、まだ自分の意思で、自分の言葉で生きていない。まずは内側に目を向けること。心の声を聴くこと。何を欲しているのか。何を望んでいるのか。どう在りたいのか。どこへ向かって行きたいのか。


『私はこういう人間です』そう言えるようになると自然と自分軸はできてくる。そうして何度も経験を重ねていくうちに、揺るぎない信念が少しずつ軸を太く折れないものへと育ててゆく。

時間はかかるかもしれないけれど、そうしてできた『自分軸』はとてもしなやかで折れないものになっているはず。

私はそう信じています。




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