第25回 大人相談会 / あの時置いてきた私を探しに行こう vol.2

前回のテーマに応募者が定数越えだったため、今回は第二弾として同じテーマで話を聴かせていただきました。

それぞれの人生の中で立ち止まり、考えて決断した分岐点での選択。そのときに置き去りにされた「もう一人の私」。皆さんの中にはその時の自分に対して、今現在はどんな思いがあるのでしょうか。一人ずつ、過去を遡って紐解いてゆきます。

若い頃の選択には「今やらなければ」「この目標を達成するために」といった “must” が、まるで将来の成功を約束することと同義のような意味合いを持つことがあります。そこにはもちろん「好きだから」という感情もあるのですが、それよりも優先させるべき未来の自分への約束のような、一種の強迫観念や縛りのようなもの。絶対にこちらの方がいいに決まってるという思い込み、その先には幸せしかないと自己暗示にかけるような決断が自分を引っ張り上げてくれるという錯覚。
そのまま突き進めれば何の問題もなく初志貫徹できるのでしょうが、途中で予想しない事態に陥った時、柔軟な姿勢と対応がその後の人生の新たな道を切り開くというのは珍しいことではないのかもしれません。

「回り道はしたけれど、あの時置いてきたもう一人の自分に自然とフォーカスできる環境にいたことはとてもラッキーであり、最終的に今現在は自分の一番好きでやりたかったことにたどり着けている」
晴れやかな顔でそう言い切れるって、なんて幸せなことでしょう。過去の分岐点で選んだ道も、その過程があったからこその経験も、全ては今手の中にある幸せへのプロローグだったのです。そして今現在は「とにかくやりたいことができるうちに全部やる」と、清々しい表情で断言されます。これは私も含め、そこにいたメンバー全員が共感の嵐でした。年齢を経て、経験を重ね、この先の人生を考えたとき、今ある健康な身体と心は決して当たり前ではないし、期限付きの幸せであると実感している者達の真理。まさしく、と何度も頷くのでした。


「あの時の選択は間違っていたかもしれない。本当はもう一つの道に進みたかった。あの時、違う道を選んでいたら、今頃どうなっていただろう」
そんな思いを抱えたまま、長い道のりを歩いてきた。生活のため、安全のため、手放した「必ず返事するからもう少し待ってて」と言われた言葉が今も脳裏に焼きついて離れない。もちろん今現在の人生が、決して後悔のみに支配されたものではないし、一番の希望とは違った道を選んだ、今の人生を否定するつもりは全くないとしても。それでもあの時置いてきた自分が、今も尚あまりにもキラキラとして楽しそうな姿をしているとしたら。
お話ししてくださる時の少し辛そうな表情が身につまされます。しかし私たちはここまで歩いてきた。その長い道のりでしっかりとレンガを積み上げてきた。そこには簡単には崩れない自信と信念があるはずです。

何事も、捉え方ではないかなと思いました。もしもあの時、あの人の言葉を信じてもう少し待つことができていたとしたら、本当にその後の人生は思う通りの幸せに繋がっていたのでしょうか。それは神のみぞ知るところ。今現在の自分とは比べようもなく、比べる意味もないことです。だったら、これからの人生を楽しく輝かせるために、もう一度あの頃の自分を連れに帰って、“自分総動員“でできることをやってみるのはどうでしょう。
好きなことを単純に楽しみとして謳歌することは、案外とても難しく、贅沢なことだと大人の私たちは知っています。だからこそ今できること、楽しむためだけにやれることは、今このSNSの時代だからこそ結構あることも知っています。
何もしないで過去に思いを馳せてばかりいるのではなく、小さな一歩でもいいから何か行動を起こす。これこそ今の私たちに必要な“生きる力“になる気がして仕方がありません。
周りの目や評価を気にすることなく、自分がやりたいこと、進みたい方向へと舵を切る。これまでの人生をたくさんの経験と共に歩んできたからこそ、できる“わがまま“があってもいいのではないでしょうか。


過去の選択の“間違い”によって、自分の適性が明確になった。という嬉しい誤算も人生にはあります。自分の向き不向きは案外自分自身では理解できていないもの。それは若い時には尚更です。誰でもできるような仕事なのに、私だけどうしてこんなにも間違ってばかりいるのだろうという疑問。その時には分からなかった自分の適正。キャリアカウンセリングなどなかった時代の、自分で選択できなかった仕事への苛立ちや焦燥は、その後に花ひらいた、全く正反対の「クリエイティブが得意な自分」の発見へと繋がるのです。適正に合わない選択は、得てして受動的であるとも言えます。与えられたことにまずは打ち込むことで経験を積み、キャリアへと繋がるケースは少なくはないし、以前の日本の社会ではそれがマジョリティであったとも言えます。それが功を奏するか否かはその人が持つ素養や嗜好、周りの人たちの助けなどの環境によっても結果は千差万別でしょう。「頑張りさえすれば誰でもできる」は案外ハードルが高いことなのかもしれません。とにかくあの経験があったからこその、今の唯一無二の世界観は本人にとっては「人間万事塞翁が馬」であると思うのです。戸惑いながらも話されるその晴れやかな笑顔と含蓄のあるお言葉に、今ある充実がじわりと滲み出ているように感じました。



若き日の、一大決心した分岐点での選択はあまりにもドラマティックで、だからこそ今の幸せがある、と胸を張る人の言葉は輝いています。そして置いてきた夢は今からでも十分に叶うと、今夜ここに集まるメンバーだからこそのアドバイスが、みんなのテンションを爆上げします。置いてきた夢は決して「過去の夢」などではなかった。そのことに気づかされてまた新たな分岐点へと思いを馳せるその瞳はキラキラと輝いていました。


過去に囚われていたこと全てに肯定的になることはとても難しく、勇気のいることです。しかし「全ては繋がっている。あの出来事があったから、あの思いがあったから、私は今ここにいる。そしてそれをようやく理解し、受け入れることができた」と言う人は、とても澄んだオーラを身に纏っています。いきたくてもなかなかその境地へはたどり着けないのが人間であり、一つ間違えばそれは諦念や悔恨へと簡単に陥ります。ではなぜそうはならなかったのか。全ては学びであり、自ら気づかせるためにあったと仰います。
私たち人間は生まれる場所を選べないように、育つ過程において敷かれたレールを無意識に走っていることは、後になって初めて気づくことが往々にしてあります。そのことに恨みつらみを持ちながら我慢を重ねて生きていくのか、自ら離れることで人生のイニシアチブを取るのか。また、取ったつもりが全く取れていなかったということもあるのが人生の悲哀でもあり。難しいですね。
過去のそれらの出来事をマイナスと捉えず、学びや気づきと捉える。そうすれば今後の人生は自ずとプラスの方向へしか向かない。それは大きな楽しみであり、とても前向きな世界が目の前に広がっているように見えます。



あの時置いてきたあなたは笑っていますか?悲しそうですか?今の現状がその表情を作るとしたら、あの場所から長く歩いてきた道中に、その手にたくさん得たみのりの果実を持ってその子に会いに行ってください。
「ほら、こんなに美味しい実がなったよ。だから大丈夫。安心して、これから先の人生を一緒に歩いていこう」と声をかけてあげてください。

きっと、これから先は全部のあなたで、これまでの何倍もの恵みを受け取ることになると思います。
楽しみしかありませんね。


参加してくださった皆さん、ありがとうございました。


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