美や外観、健康の観念への違和感【遊びと執着の違い】

誰もが自分に備わっている美しさをそのまま認めることができるように――そんな思いから、先月私は新マガジン「そのまま生かすファッション部」を開設した。
このマガジンにはコンセプトに沿った過去の関連記事も入れていて、たとえば二十代から白髪が増えていた私が、近年続けたヘナ染めを卒業した経緯◇「ヘナ卒業【観念を無効にすると、変化は祝福】」など含まれており、この世界で学んだ美や健康、外観の理想や基準などの観念(Belief)に自動的に従わなくていいんだよ、ということを共通テーマとして発信している。
何かを信じているとき、それが本当に「あなた自身の好み」なのかどうか、問うことが大事だということだ。

以前からこのテーマで繰り返し記事を書いていたが、ライフスタイルや美や健康といったおそらく多くの人が「とっつきやすい」話題でありながら自分の内の深いところに気づくきっかけになるためだ。私自身の関心、探究心をシェアするということ以上に、そうした身近なトピックから何を考え、何を発見するかの広がりが大変面白いと感じており、今後もこの話題は増やしていくだろうと思ったので専門のマガジンを作った。
(前回は、爪をテーマに語りながらマガジン開設を報告。◇「素爪ロングをアレンジ【そのまま生かすファッション部発足】」

ところである日、私のこうした活動を知っている親しい人から、こんな旨の指摘を受けた。
「自分に備わっている『そのまま』を生かせるのは、この人(書き手の私、masumi)だからできるんじゃないの? と感じる人もいるかもしれないよ」と。

つまりそれは、私が「自分で自分の素材を気に入っている」とか、「自信がある」とかが背景にあって、そんな人だから「そのままを生かそう!」なんて言えるんだと思う人もいるかもしれないということだった。

まぁ、そのように解釈する人がどのくらいいるかはさておき、そんな理由で「そのままを生かそう」なんて他者に言えるもんじゃないよね。しかし今に至るまでの私の道のりをほとんどの人は知らないわけだから、もしかするとそういう印象を与えないとも限らないのかもしれない。

だから、ここで言っておこう。
むしろ私はいつまでも「世間の打ち出す理想」や「美容や健康のルール」に希望を持って従える人の方が「余力あるんだなぁ」と思ってしまうよ。
あ、まだ、そこに希望を抱けるんだぁ、と。皮肉で言ってるのではない。

たとえて言うなら、ロング、ロング、ロードを歩いて私は疲れ切り、吹っ切れた者なのだ。耐えられる閾値を超えちゃったのよ。
自分が心からそうしたいと思ってもいないのに、「人からどう見えるか」のために何かをすることはもうできない。そこにかけられるエネルギーなんて1ミリも余ってない。そこへ回したいような余力は本当にないんだ。

これまで、その方向へ歩んだときには徹底した違和感を味わってきた。
消耗しながらも自分を鼓舞して乗っていくレール。
それは実体のない「みんな」がそれが素敵だと、正しいと、そうすべきだと認める方向。
「勝っても(うまくいっても)」「負けても(うまくいかなくても)」一定の参加料をペイし続けるゲームのように、あなたの心は枯渇していってないかい?

あなたの内が満たされないなら、楽しくないなら、それはあなたの歩みたい道ではない。

違和感が教えてくれること、ボディ・ポジティブ

たとえば、世間の美の基準。あるいは、これを目指すべきというお手本。
あなたは違和感をおぼえたことはないかなぁ。
自らいいね、と思えるものも、そうじゃないものもあるかもしれないけど、ふと気づいたら「あれ、でも、そういう考えにただ染まっていたのかも」と自分の価値観すら後付けだったと気づくこともあるよね。

なんでもルール化されると「お手本」を作ってしまいやすいから、あるものごとが形骸化してないか確かめるためには、自分の感じていることに注意を払う繊細さが必要だ。

私は「ボディ・ポジティブ」と呼ばれる風潮をわりと好ましく思っているんだけど(海外の流行に興味がある人は近年よく聞くよね。ボディ・ポジティブとは「自分の体をありのままに受け入れて愛そう」というムーブメントのことだ)、それだって「ボディ・ポジティブとはこういうこと」「こうであらねばならない」という型ができたら、そこに縛られてしまう人が出るかもしれない。

ただ、こうした波が起こるのはやはり、長年蓄積されてきた大きな歪みや個々の抱いてきた違和感があると思う。それは私ではない! という叫び。
自分の親しんでいる「世界」が提示する美の基準、健康の基準、理想などに対して「なぜ、そうでなければならないのか」「本当にそれが誰もにとって共通の最善なのか」を心の内で、あるいは声に出して、問いかけてきた人はたくさんいたはずだ。

基準の方に自分を合わせるのか。
自分が自分自身の基準を創るのか。

違和感はあなたに問いかける。
けれども自分に合わない観念を正しいと思っている間は、違和感はあなたに不都合だから、あなたはそれを「黙ってろ」と抑圧する。
すると、どうなる?

内に従って、体も、あなたの現実の状況も、あなたの心の対立・戦争状態を「そのまま」表してくれるだろうね。

遊びと執着の違い、動機とそれに伴う結果

自分自身の過去の経験も含めて、多くの人が健康や美の観念に囚われているのを見てきた。
何をもって「囚われ」と言えるかというと、そこに苦しみや恐れがあるかどうかだ。

その人にとって一時的に理想の状態にあると判断できたときは、自分の採用してきた観念の「正しさ」を噛みしめ、よろこびと満足の状態に浸れるかもしれない。でも、この状態はすぐに「王座から転落する」。
恐れの根っこ、あなたを駆り立てるニーズの根っこは消え去っていない。満足なときも不満足なときも同じようにあなたの中で息づき、指示を出している。

囚われているということは、あるものごとに執着しているということで、

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