厭世観に囚われずに、眠り込まずに見ること【幻が消えることを止めようとする働きについて】

乖離していく自己を最後に飲み込もうとしている。そんな感じの日々を過ごしている。何のことか説明しよう。
今からもう約2年前になるが、◇「二極化の意味を正しく理解しよう・エゴという解釈者をクビにすること」(2021年5月10日)という記事を公開した。
その中で、今の時代に進行している二極化とは、外的な現象なのではなく「内の二極化」なのだということを伝えた。文中ではスピリットかエゴ、という表現を用いたが、どちらかが真実でどちらかが幻想であるとき、両者は対等な存在を有するものとして統合されることはありえず、一方がただ消えていくのみとなる。

消えゆく自己をなんとかとどめようとする……実在でないものを実在であるとして、経験し続けようとする。
そんな努力のために「この世界の中で」自分が持ち得る希望を、まだ探し続けていたのが直近の数年間ではないだろうか。

どこかで自分を「この世界の中の」存在であると信じるためには、この世界の中に属している希望を持ち続けていなければ、きつい。たとえその希望が絶望にたやすくすりかわるような性質のものだとわかっていてもだ。

無為にここにいると思うことほど、真綿で首を絞めるように人をじわじわと殺していくものはないだろう。驚くなかれ、退屈を避けるあまり、スリルにあふれる「つらい経験」「苦痛」を選ぶ傾向だって人間にはあるのだ。

ああ、さようなら、自分の中の二極性。
私は、お前の中で、きっとよろこびを見つけられるだろうと長いこと信じていた。
「そうではないんだ」という気づきが何度訪れても、やっぱり期待する姿勢に戻った。
しかし、気づきの力は強く、眠り込んで忘却することを続けられず、お前が差し出すよろこびの包みの下にあるものは、苦みと痛み、敗北の味わいだということがとうとう透けて見えるようになってしまった。

厭世観に囚われずに、眠り込まずに見ること

厭世観は幻想の自己、つまり「ひとつの私」からの分離を信じる観念が作り出したエゴに属する。

厭うのではなく、かといって偽りのキラキラフィルターで「加工する」のでもなく、この世を見るにはどうしたらいいのだろうか。

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