遺言のような気持ちで【変容と時期】

毎週のライブ配信(現在は週二回)を行うようになってもうすぐ二ヶ月経つが、私のこの新しい試みの中には遺言のような気持ちが含まれていることが否めない。
2023年3月28日のnote◆「ヴィジョンに忠実に生きる(予想外のYouTube開設譚)」では、ライブ配信をするようになった経緯とYouTubeチャンネルの開設などを書き表したが、この流れの背景すべてを言語化しているわけではなく、まだ言葉にできていない動機の色彩がある。

その色彩のひとつが今回の話になるが、これまで通り文章で記事を書くことのほかにライブ配信を行うことがなぜ、遺言の感覚を伴うのか。
私の身体的な死を予感して遺言と言っているわけではない。

むしろ、今から二年前の2021年4月30日の記事
「植物と気が合う・地球人生リタイア疑惑」
と同類の感覚で、その内容はそれから数ヶ月後の2021年10月9日
「鏡のトリックからのリタイア、IndependentとWholeness」
に書いた通りの結論に導かれたのだが、その頃から持っている「終わり」の感覚そのものは今も変わらないということだ。

ひょっとすると、この終わりの感覚が新たな何かに置き換わることもあるのかと考えなくもなかったが、長く経ってもそんな感じは訪れない。
つまり、新しい何かが始まる前の一時的な終了を感じているというより私はひたすら終わりに向かっているんだという実感だけがあって、この正直な感覚から想像すれば、今ライブ配信で話しているような内容をたとえば十年後も同じように話しているとは思えないのだ。

私は主にスピリチュアリティーについてライブ配信で今語っているが、こうした話の「しどき」というのはもう、そう長くは続かないのでは、と感じている。
時期のことは後述するが、具体的にそれを数字で指定する表現はしないけれども。

今のうちに話しておこうという遺言感覚とは、そういうことだ。
もちろん私のnoteをすでに熱心に読んでいる人は記事だけでも十分なのだが、ライブを続けて音声で直接語りかけることは、また別の通り道としての「知るきっかけと理解」を提供できると私は考えている。

願いと役目

私自身が特別に志願したと意識してきたわけではないが、投げ捨てても投げ捨てても結果としてなくなってくれなかった、ある種の情熱がある。

情熱といっても目に見えてわかりやすいキラキラしたものではなく、特に活動として形を定めなくても、自分が生きていると放っておいてもそこに関心が向いてしまうという類のものだ。

あら、楽しそう! と思う人がいるかもしれないが、ある言い方をすればこれは背負っている荷物のようなもので、同時に、それによって自分は生きている感じもする。たとえその荷物を捨てたくても、それを捨てたなら自分はここにいないだろうという、矛盾した答えが出てくる。

表層の私にとってしばしば絶望的だったのは、それに忠実でいると「この世を解体する」方向に向かうのだということだった。

ここから先は

945字

¥ 750

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?