思考の感染について自覚する

思考の感染に気づいたことはあるだろうか。
あれっ、いつのまにか、同じ考え方をするようになっていたなぁ。
この人たちと、ものの見方が似てきたな。
すっかり、「同じ側」の仲間として反応することが定着してしまったな。

あなたの属しているグループ。仕事や活動。暮らしている地域や家の人々。それらの醸し出す色に「染まって」物事を見ている。考えている。

そうであっても、自らすすんでその色を取り入れているのならいいのだ。
それが本心から心地よいのなら、いいのだ。
でも、「知らぬ間に、影響されて……」と感じるならば、待った! だ。

誰も本当の意味で「受け身」の人はいない。
影響を受けていると感じているときも、あなたが影響されることを選んだ。
たとえ自分の選択を自覚しておらず、あなたにとっては「無意識的に」そうなったと感じても、自らがその色に染まることにしたのだと、まずは認める必要がある。

どんな思考も、それ自体は「感染力」を持たない。
しかし、ある思考をあなたが、自分の「引き金」に利用することはできる。

自分の内に同じものを持っているとき、あなたはあたかも「外にある思考に反応しているかのようにして」、元々持っていた思考を活性化させる。
ちょうど鏡に映して姿を見るように、そのようにして自分の内部にあるものと「直面した」のだ。

参加している自分を自覚する

だから、外側の何かがあなたを染め上げたのではないし、そうできるわけがないのだと「目を覚ます」。
その基点に戻らない限りは、選択し直すことができないのだ。

——そうはいっても、自分のいる環境にいつのまにか染まることはあるでしょ? たとえばある職場で仕事をしていたら、いつからかそこでのルールや常識になじんでいて、それらしい考え方をするようになっていたとか。環境を変えるまで、自分がその色に染まり切っていたことすら自覚できないこともあるじゃない——そんな考えがよぎるかもしれない。

人間関係にも同じことが言えるだろう。
ある人と親しくしているとき、その中での雰囲気にあなたは同調していて、「いつものあの感じ」に溶け込んでいる。
そしてわざわざ自分に問いかけることはしない——私って今、居心地がいいの、悪いの? 楽しんでいるの、そうでないの? とは。

そんな風に問いかけることができるのは、何かトラブルがあったときや、「おかしいな」と感じる出来事があったときではないだろうか。
何も問題がないとき、あえてそうした「確認」をするだろうか。

けれども、私は促したい。
なんでもない日常から、意識を目覚めさせておくことを。

あなたの「参加している場」で、それは物理的場所や環境だけでなく、活動のフィールドや人間関係、そこでの思想や基盤となるエネルギーを含めるが、一体自分が何を思い、何を感じているかに自覚的でいよう。

これを、「自分のエネルギーを自覚すること」と説明することもできる。

エネルギーの周波数と、体験する現実や人間関係

あるラジオ局にチャンネルを合わせるように、あなたは特定の周波数に自分のエネルギーを合わせている。自分自身がその周波数になっていると言ってもいい。
どんな思考に同調するかは、まさにそうした選択の行為だ。

このように想像してみよう。
あなたがある人と交流を持つとき、お互いがぴったり同じ周波数ではなくとも、双方が「共有している周波数帯」のところで交流できる。
それぞれのカバーしている周波数の範囲内に重なるところがあれば、そこを利用して交流できるのだ。
逆に言えば、共有している周波数帯が存在しない相手とは交流ができない。
出会うことすらできない。

ということは、あなたが「違和感があるな」とか「本当は好きじゃないな」と思う考えを基軸とする団体とか、個人と交流する場合はどうだろう?
あなたが意識的に「自分自身でいる以外のことを一切しない」と決めている場合を除き、もし漫然と、あるいは習慣で、そのようにしていたなら。
何が起きるのだろうか?

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