ヘナ卒業【観念を無効にすると、変化は祝福】

五年以上、継続してヘナをしていたのだが、卒業することにした。
具体的な理由を挙げれば複数あるのだが、総括すると、現在の自分のライフスタイルや好みと、ヘナをすることとがすでに合わなくなっていたのだ。

この記事では、セルフヘナをするようになった私の背景と、なぜやめたのか、今後のヴィジョンなどの具体的トピックと、意識が現実を創造しているという自覚をもって観念を見つめ、今の自分に調和した状態へと戻るための話をする。
他の状況にも相通ずる点があるので、ヘナや白髪や美容といった話題に焦点をあてていない人でも自身の関心事に適用して役立てることができる。末尾には、応用のポイントをまとめた。

ヘナを始めた背景は

私がヘナを始めたのは、今から六年近く前になる2016年の秋に「髪や肌のお手入れ改革」とも言える、新しいやり方を取り入れた後のことだった。
そのとき私は自身の体験や考えに導かれて、顔に何かをつけてスキンケアすることをやめ、また、頭皮や髪にはシャンプー・コンディショナーや石鹸を使うことをやめた(その頃の記事はブログ★日常生活・ライフスタイル★カテゴリー内で読むことができる。記事数が多いので、絞りたいキーワードがある人はブログ内検索を)。

「湯シャン」と呼ばれる湯洗髪を実践していたわけだが、私の場合クエン酸ですすぐプロセスを途中にはさむ独自のやり方で今も続けており、好調だ。
けれども、その習慣に切り替えてしばらくの間は、すっきり感がほしくなる時期もあって、その頃ヘナは浄化の役割としてとても適していた。月1、2回ヘナをするだけですっきりして気持ちよく、頭皮や髪のコンディションがより良くなったのだ。

厳密に言えば私が当時使っていたのは、ヘナとインディゴ、ハーブのブレンド製品で、化学染料は一切入っておらず、インディゴよりずっとヘナの割合が多いものなのだが、仕上がりの色を調節するためにそれを選んでいた。
なぜなら、ヘナをすると白髪の部分が赤やオレンジ色に染まるからだ。インディゴ(藍)が加わることで発色を暗くし、茶色にすることができる。
つまり、私はヘナを「白髪染め」としても使用していたわけだ。

<白髪についての姿勢の変遷>

私の場合、二十代半ば頃から白髪が目につき始め、同い年の友達が誰も白髪染めについて考えていない頃から、白髪とのつきあいはスタートしていた。
とはいえ、ある時期まではファッションとして髪色全体を変えることが好きだったため、様々なトーンのカラーリングを美容室ですることで、特に白髪にフォーカスして何かする必要は感じていなかった(普通のカラーリングでは白髪には色が入らずそのままだが、真っ黒な髪でいるよりも白髪が目立たないため)。

そのうち、元の黒髪が心地いいと思うようになり、パーマなどかけても髪の色はそのままにしておく時期があったのだが、その頃は、白髪もそのままにしていた。同年代の多くの人々よりもある方だなとは思っていたが、さほど気にしていなかったのだ。
ただし髪型で遊びたい気持ちはまだあったので、美容室には定期的に通っており※、そうこうするうちまたカラーリングをしてみたり、カラーをしないのなら白髪だけ染まるこんなメニューがあるよ、と勧められて「頭皮にやさしい白髪染め」なるものを選んだりしていた時期もあった。
けれども、「やさしさ」「自然由来」をうたっているメニューを選んでも、薬液の刺激に耐えられなくなっていき、ついには染めている最中も帰宅後も体への影響が大きすぎてやめたい! と強く感じるほど苦手になった。

※現在はセルフカットをしている。このnoteでセルフカットの話題は、
「習慣を見直し、調和したライフスタイルを選び直す【満足度の高いセルフカット編】」(2020年2月)
「セルフカットで冷や汗かきかけても大丈夫!【テキトーに極めようセルフカット道】」(2020年6月)に登場。

このときにはもう自分の中で、白髪を「染める」ルーティーンができてしまっていた。美容室のメニューで染めることはやめようと決めたが、何かでは白髪を染めなければという発想。
しかも突き詰めると、自分が白髪の外見が嫌だ(好みではない)というよりは、他者から見て「染めていた方が身だしなみとして良いのだろう」という考えからだった。
ある程度の年齢になったらそのままでOKかもしれないけど、私くらいの年齢なら染めておいた方がいいだろう、という奇妙な考えだ。

今回、ヘナをやめる流れの中で、自分自身の白髪にまつわる観念を見つめ、今の自分に合わない「要らない観念」を取り除き、こうありたいという姿勢に戻ることにした。これについては後で詳しく述べる。

ヘナが不要になったわけ

そういうわけで、ヘナは私にとって、ひとつは湯洗髪というライフスタイルの補助として、もうひとつは白髪染めとして機能していたのだが、その両方が今は必要なくなってしまった。

まず、湯洗髪だが、もうすぐ六年というほど長く続けると、すっかり頭皮も髪も調子が整っていて、ヘナが余計になってしまうのだ。
私はしばらく前からインディゴを混ぜたブレンド製品はやめて、ヘナのみが主成分の製品を使うようになったのだが、ヘナは浄化力が強く、頭皮を乾燥させる性質があることをそれまで以上に実感した。そのため、ヘナの塗布前にはオイルマッサージをすることが推奨されているが、それを守るほかにも乾燥防止の工夫を色々してみた結果、今の私にはヘナは刺激が強すぎるのだと感じた。明らかに、心地よさよりも不快感や負担の方が上回ってしまうのだ。

さらには、生活環境の変化もあった。かつてと違い、現在の住まいの都合ではヘナをすること自体が大がかりになっていて、たとえばヘナ中の暑さ寒さ、周囲を汚さないための準備や後片付けなどに疲れるようになっていた。

それでも、もし髪色の仕上がりがとても気に入っていたら、まだ粘って続ける工夫を何か考えたかもしれない。
しかし、これは個人の好みだが、私は元々自分の髪を赤やオレンジといった色合いに彩るのが好きではなく、美容室でカラーをしていた頃も、「赤みを消す」発色を選ぶことがオーダーのポイントだったほどなのだ。
あくまでヘナは、天然のもので心地よく頭皮を浄化してくれて、それでなおかつ白髪も染めてくれるのなら「色は好みでなくとも受け入れる!」という姿勢で選んでいたのである。

だから、「近頃ヘナが負担になっている」と気づき、「私に本当に必要か? 合っているか?」を自問してみると、「『今は』もう、メリットよりデメリットが上回るようになったんだな」とわかったのだ。

ネックになっている観念をほどく

このように「今は合っていないのに、続けていたこと」を見ると、そこには「どっちを選んでもうれしくない」二者択一の選択肢があり、そのベースに観念(自分が信じていること)がある。
「やりたくないけれど、やらなければならない!」と思い込むとき、既存の観念の枠組みに従って世界を組み立て、その中に自分を制限しているのだ。

私なら、もし、ヘナをやめることで「白髪を定期的に染める他の選択肢」を探すのであれば、また「やりたくないことの内容を交換する旅」が始まってしまう。私にとっては、白髪を染めなければならないと義務に思うこと自体が楽しくなく、意に沿わないことだったのだ。

といって、近年「グレイヘア」という言葉と、白髪をそのままにするスタイルが話題となる様子を目にしていたが、その姿勢に賛同できるところはあるものの自分の好みや純粋に「惹かれる・惹かれない」の観点からは、魅力を感じていなかった。
自分がもう少し上の年代になったらありかもしれないという気持ちや、いつかはそうするのだろうという思いからの関心は持っていたのだが、妥協なしに「いいな、こうなりたい!」と思えるスタイルを、特に同世代のそういったお手本を、その中から見つけることはできずにいた。

こうなると、板挟みになってしまう。
本当は染めたくない、でも、そのままも素敵と思えない
……という図式だ。どちらを選んでもうれしくない二者択一。

すでに述べたように、観念という「色眼鏡」を通して自分の世界を組み立てていることがわかっていた私は、不調和となっている観念を注意深く調べ、無効にすることにした。

まずは、私が以前は「自分の白髪を歓迎してはいないが、さほど気にしてもいない」状態にあったことを思い出した。
白髪を定期的に染める習慣を作ってから、「染めなければならない」という前提で、しかも染めるという行為が(美容室でする場合でも、自分自身でする場合でも)負担だったり面倒だったりで、結果として白髪は厄介なもの、面倒なもの、負の感情を呼び起こすものになってしまった。

逆にいうと、白髪そのものは私にとっては「白い髪」にすぎず、もしそこに意味付けするとしたらそれは「後から足した定義」なのだ。
まず、この立場に戻った。

ここで思い出してもらいたいのだが、他者が何をどう評価しようと、その評価はあなたに影響しない。
あなた自身が同じ観念を採用していなければ、たとえ誰かが「あなたに向けて」何らかの評価を下したときでさえ、あなたに影響することはないのだ。

だから、次に私が自分に問い、見つめたのはこういうことだ。

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