すでにある統治権の回復【あなたの世界の美しさへ】

わぁ! こういうことだったか! と圧倒される大局的ヴィジョンをきっちり取り戻した後は、細部が見えないということが続いた。これが何のゲームかわからない、ゲームの「上がり」が何なのかもわからないという、そんな状態は完全に脱したとわかっているのに、はっきり見えている輪郭の中の、ぼやっとした部分がなかなかクリアーにならずにいた。――スピリチュアリティーの道において、生きることや存在について、の話だ。
そのぼやっと霧がかった部分は晴れそうで晴れず、ゆっくりとした推移を見守って、晴れ出して「見えてきた」確信を伴ったのが2022年。今年明けてのことだ。

ここで私が言っている細部というのは、出来事について語る未来予想とか、自分の人生の具体的展開とかではない。
そうでなく、スピリチュアリティーについて、あるいは私たちという存在について語るときに、「いつも、ここにもやがかかってないか?」「誰もこれを明確には説明してないではないか?」とずっと思っていたいくつかの点のことだ。書物や外部の教えの中に無いというだけでなく、自分さえそこが見えておらず、自分なりに「こういうことなのでは」という考えは持ちつつも本当にそれが明らかになるまでは、自身の開催する講座であれこうした記事の中であれ、仮説の段階で明言することはしなかった。わからないことを教えることはできないからだ。

そして、それが「見えた」今となって報告できるのは、以前から「こういうことなのでは」と胸の内で考えていたことは合っていたのだけれども、そうなるとこれは結構大変なことだ! という改まった驚きだ。
もうちょっと詳しく表現すると(以下もあくまでスピリチュアルな目線からの話で、具体的出来事の話ではない)、この人生の中でこのくらいのところまでは達成できるかもしれないな、けれどもこちらに関しては、地球のこの人生という設定の中では達成できないんだろうな、と思っていたことが、「むしろそっちが真の『上がり』ね」とわかってしまった。
つまり、目標はこのあたりだろうと思っていた、そのはるか先が目標だったという感じ。しかし、これはたとえであって本当は距離の問題ではないし、実はこの発見はうれしいのだ。これまでできないだろうと思っていたことができるのだから。

この地球ゲームクリアーの「最後の解」について

さて、私が様々な教えや書物にふれても一様に「これについては明言しないものだな」と不思議に思っていたことだが、やっぱりそれはこのゲーム(地球体験・人生というゲーム)で各々が最後に自分で解くべきものだったのだ。たとえそれに肉迫していても、あえて強調してわかりやすく「これが答えだよ」というような示し方はされていない。言うなれば、「どんな攻略本があろうとも、最後のそれだけは自力で開錠してね」ということだ。
ただし、すれすれまで導くことは可能。というより、先に答えを聞いても実感がなければ答えが答えとして機能しないのだ。中身を伴っていなければ、形だけ揃えても開かない。

さらには、その答えを「これが解か」と理解した後も、「理解を適用する」ところまでを含めてのゲームだ。適用し切ったときがゲームクリアー。遠足は家に帰るまでが遠足です、という決まり文句に似ているか(違う? 笑)。

というわけで、私は「理解を適用し切ること」が続いている。あなたがもし同様の歩みか、あるいはこの記事で「最後の解」と表現したものをまだ会得していなかったとしても、本当にそのすれすれまで、すべてが繋がってその解に辿り着き、あとは自分の手で開錠すればいいだけというところまで案内することはできるので、私のこういったシェアの内容も、あなたが活用する案内のひとつにしてもらえたらいいと思う。

今回は、「すでにある統治権の回復【あなたの世界の美しさへ】」という話をする。

手段は手段であり、力の発生源ではない

私たちが「自分とは何か」を錯覚して生きていると、様々なものにそれ自体の力があたかも宿っているかのように感じられる。

身近な例として、あなたがスマホで何かをしているとしよう。
メッセージやメールであれ、通話であれ、誰かとコミュニケーションの最中だとしようか。相手は今、目の前にはいないのだが、直に会っていなくても連絡が取れている。
するとあなたは、「スマホがあるから(もしくはテクノロジーによって)」そのコミュニケーションが、連絡が、繋がりが可能になったと思う。

次の例。あなたは買い物をしている。
支払いは現金であれクレジットカードや電子マネーであれ、あなたは何かを購入し、「お金があるから」その品やサービスを得ることができたと思う。

あるいは、あなたが「かわいいね、かっこいいね」とほめられたり、特技や能力などを「すごいね、素敵だね」とほめられたりしたとする(もちろん逆のことも起こるかもしれない)。
すると、体があるから(「体イコール私」としての自分に)それが起こったと感じ、体をさらに手入れしたり、衰えないよう気をつけたり、大切にしたり、訓練したりするかもしれない。

Oh, no.
これらが全部錯覚
だと、私たちは気づかなければならない。
地球ゲーム内のアトラクションにはまって遊び続けるのではなく、ゲームをクリアーする気があるのなら。

では、これらの例を錯覚せずに、正しく見るならばどうなるのか。
どんなことを混同しているかを明らかにしながら、シンプルに注意を促すと、

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