死は一日にして成らず

年齢や立場によっても異なるものだが、現代人の多くは、死を身近なものとして捉えづらいかもしれない。特に日本では、整然と清潔に保たれた環境で日常を過ごし、死ぬことなどあたかもないかのように錯覚して暮らすことが可能だ。今年のウィルスによる状況など「非常事態」の例外を別として。

そう、今年は皆が(普段あまり死のことを考えないようにしている人であっても)、死について意識しやすい年なのではないだろうか。

現代では、亡くなるときのイメージも、漠然と「死に至る病だとわかった後に、症状が末期になってから病院で……」という考えが描かれやすい気がする。あるいは、知人や身近な誰かが逝去していれば、そのときのことが心に残り、その特定の状況が死を喚起するイメージの1つになるかもしれない。

いつ、どんな風に死ぬつもり? という質問は、わからないことが当たり前であると考えられているし、そんなこと考えてみたくない人もいるだろう。

しかし、私は「死」そのものに対するあなた自身の思い、少なくとも「死をどのように捉えているのか」を自覚しておくことをおすすめしたい。
必ず死ぬ私たちが、死をどのように捉えているかは、生きている間の人生の質を左右するからだ。
あなたの生き方、価値観——根本的には自分という存在への理解によって、死をどう捉えるかは変わってくる。

生まれたことも死ぬことも、自分で選んでいないと思い込んでいるのなら、誕生も死も「頼んでもいないのに押しかけてきた」迷惑な現象になりえるし、恐れの対象にもなりえる。

現代社会でスタンダードとされている死の捉え方は、あなたという存在への真の理解を伴っていない。
先に断っておくと、この記事は、そのような死の捉え方に沿わない内容だ。

死は一日にして成らず

誰かの訃報を知ったとき、その人が「いつ、何で」亡くなったかに注目していることはないだろうか。

死には様々なシチュエーションがあるけれど、「直接の要因とされた形」に注目すると、まるでそれだけが死の原因であるかのように見える。

しかし、私たちがこの世界に誕生したという観点を採用すれば、死という「この人生の終わり」は誰もに必ずあるということを私たちは知っている。生まれた以上は、いつでも死に向かっていると理解することができる。
少なくとも、直線的な時間に沿った平面的な見方ではそうだ。

つまり、死とは連続的な変化の一環と言える。
連続性の中での自然な到達点だ。しかも、スピリチュアルな観点で言うならば、それは到達点ではなく「移行点」にすぎない。

ここで特に明確にしたいことは、こうだ。
死は決して、それが起こったときに限定される「点」ではないということ。
この日、この時刻に、このように亡くなりましたという「点」を死と捉え、死ぬことを「形」として理解しようとするのは、何も見ていないに等しい。

念のため書いておくが、これは死に方に対する価値判断をするための話ではない。どんな死に方がよいとか、わるいとか、望ましいとか、望ましくないとかを決めるような話ではない。
むしろ、私たちが表層的にものごとを見て、これはこういうことだと思い込んで解釈するやり方では、何もわかっていないのだと気づいていよう。

さて、誕生を自分で選択したということはまだしも受け入れられても、死を自分で選択するという考えは情緒的に受け入れられないということがある。

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