事象や現象ではなく内的状態

各々の色合いに沿った純粋な現実が展開していく流れ――ひとりひとりが創造者として、自身の体験する現実という「夢」を作って見ている者として、ますます自分色を強めていく。今この時に、このことは止められない。
これを実感している人はすでに自己の内的な幸福を確立しており、以前よりもずっと「いつの間にか過ごしやすい現実になった」と感じているだろう。
中には、その前の過程として、より純粋な自己のトーン、自分色を自覚するために内へと集中する時間をとっている人、おのずとそうなる状況に自己をいざなっている人もいるかもしれない。

創造者という表現を出すとき間違えないでほしいのは、事象や現象ではなくあなたの内的状態が「実」だということだ。「虚実」の「実」にあたるものに目を向けず、「虚」の方を追うならば錯覚をしている。
この世界という「夢」の中で何が実体なのかを忘れてしまい、「虚」を得るための道具として「実」の方を使おうとしてしまうことがある。
それは、「この結果がほしい。このような形を求めている。だから、それを得るために自分の心の状態をコントロールしたい!」という姿勢だ。

そんな「さかさま」の発想から卒業しているだろうか?
その発想の中にいる限り、あなたはずっと「満たされないゲーム」をプレイすることになってしまう。

No matter how it goes, 見える現実はどうでもいいよ、それよりもね……の精神

経験している現実がどう展開しようと、何が起こっているように見えようと、さほど興味はない。興味はないという言い方に語弊があるなら、「問題がない・たいしたことじゃない」と言い換えようか。
あなたはこの精神を体現しているだろうか。

「さかさま」の発想ではなく創造者の自然なものの見方に戻ると、「事象・現象が自分に対して持つ効力」はなくなる。元々そうであるように、ゼロに戻るのだ。
あなたは依然として、物事に対し「こちらの方が好ましい」という方向性を持っているだろうが、その実現に執着していないし、必死で取り組む必要を感じない。実のところ、執着できないのだ。なぜなら、あなた自身とあなたが経験する現実とは「ひとつ」だと知っているからだ。

逆説的に響くかもしれないが、表層的な事象・現象に興味がなくなるのは、完全にそれが自分自身の「中にある」と知っているからだ。
つまり、あなたはもはや、自身の手の及ばないどこか「自己の外」に何事をも想定していない。
「これは自分が見ている夢です」というトリックが明かされたら、あなたは悪夢におびえ続けることができるだろうか? 

これは、あなたの現実に「一見」ネガティブに見える・そのように感じ得る体験が起こらないということを意味しないが、あなたはどんな体験があっても自分の内の本質的な幸福を「失うことができない」状態にあると、明確に自覚していることを意味する。

「外がどのようであるにも関わらず」、あなたは自分が何であるかを正しく把握している。その認識を失うことは決してない。
すると、どうなると思う?

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