意識的な創造者であるあなたと、当然の信頼

自分の現実の創造者として、これまでの期間を「このゲームって一体何なの? どんなルールなの?」ということの解明に使ってきたあなたは、今後実践編に入る。

もちろん自分の現実を創造するという活動がいっときも「途絶える」ことはなかった。私たちは意識的にであれ無意識的にであれ、創造者であることをやめることはできないからだ。
その意味で、もうずっと実践してきたと言えなくもないが、それは無自覚に見る夢のようなもので、あなたにとってはコントロールできない営みだったのだ。

あなたの現実は、あなたの意識の副産物である。あなたが内で創造したことの結果である。あなたという創造者の生み出す作品である。

前回◆「真実への恐れ(という笑い話)を解除する」で、創造は「すべて」に渡ると強調したが、無自覚に創造しているなら、恐れを具現化することも止められない。そのとき人は、自分に選択肢はないと感じているのだ。
また、たとえ自分で創造しているという自覚があっても、自分の抱いている恐れに対して無力だと信じていれば、それを変えることができない。これはあなたがあなた自身のアイデンティティーを見誤り、自分の現実を創る材料の方が「自分を支配している(それが可能である)」と思い込んでしまったことを示している。
我に返れば明らかな通り、材料を「選び」「用いている」のはあなただ。

こうしたことが少しずつ、少しずつ、染み入るようにわかってくると、日常を眺める視点が変わる。あなたは、自分の意識を投射した現実を見ていると理解した上で、ものごとを知覚するのだ。

最初はこのことに半信半疑だったかもしれない。
「これも私が作ったのなら、どうして?」
と、自分の現実の一部については理解に苦しみ、創造のルールの方を真実ではないのだと思いたくなったかもしれない。

だいぶ進んだと思ってはまた後退しているように感じられる経験を繰り返しながら、こうした自己覚知の歩みをあきらめずに粘り強く続けていると、あるとき、少なくとも「自分の現実はすべて私が創造している」ということに関しては百パーセント受け入れるようになる。

あなたの、創造者としての心構えが整ったのだ。
自分の創造したものの一部に目隠しをして知らないふりをするなら、あなたの力の一部もまた、否定するということだ。
ものごとを部分部分に分けてその一部を認め、別の一部は否定するという形ではなく、全部を自分の創造と認めると、あなたの力をフルに発揮する土台がまっさらな、ありのままのものとして姿を現す。幻想の遮蔽物は、あなたの正しい認識によってどけられたのだ。

間違いを恐れる代わりにできること【創造者から見た間違いの定義】

意識的な創造者であるということは、あなたが「何もかもをパーフェクトにできること」を意味しない。肩にかかる荷を増すだけの完璧主義とは決別しよう。間違いを恐れて身動きとれなくなる必要はない。

まず、これを思い出そう――「分離した個としての観点」からは、何が間違いで何がそうでないのかすら識別できないということを。
ただし、ひとつ確かなことがある。
いかなる現象も実体はあなたの内に属している。状況そのものに正誤が宿るわけではない。

あなたの内で「苦しみ」が生じているときには、あなたが「自然な、調和した状態」から何らかの形で自ら逸れる決断をしたということだ。苦しみを、心が平和でなくなっているときと言い換えてもいいのだが。
創造者であるあなたにとっての「間違い」とは、特定の状況のことでなく、このことを指す。

では、なぜそう言えるのかということと、この「間違い」に気づいたとき、創造者であるあなたができることを説明しよう。

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