何かに向かうという幻想が消える【信じることは不要、信じたことを手放す】

少し違う自分に移行していっている感じ。
ここのところその自覚が著しく、移行そのものはあからさまな「激動」ではない静かなものだが、かつての興味関心に羽根が生えてどこかへ飛び去ってしまったかのように、それらへの思い入れが持てなくなった。

別人の目を持ったかのごとくフォーカスが向く場所も変わっているのだが、それは新しい自分だというわけでは決してなく、これまでも自分の中にあったけれど前面には出さなかった要素であり、かえって前面に出していた要素の方は、リタイアして引っ込むという感覚なのだった。

私は普段、記事になりそうな内容が浮かぶと、「形」に落とす前にどんな内容になるのかの概要を意識の中でざっと辿ってみるのだが、最近もそうしたトピックが数多く現れてくるものの、具現化(文章にすること)に到る前にやめてしまう。今の自分にとって、どれも押しが弱いのだ。

そういうわけで、書けばそれなりに愉快であろう諸々のトピックをひとまず待機させ、今経験している状態に即した記事を書いている。

自分の内面の感覚がこうも変わると、世界に対する姿勢も変わる。
これまでは多少なりとも、二元的観点において当たり前の考え、たとえば「対象に向かって働きかける」とか「自分から、あるものに向かって動く」という発想を持っていたし、実行もしていた。
二元的世界観の中ではこれは、ごく自然に思える対象との関わり方だ。

ところが、今の私が絶対的に「これがふさわしい」と感じるあり方は、そこから見ると引っ繰り返った姿勢のようでもある。

自分はどこにも行かない、アクションしない、出向いていかない、その必要がない。なぜなら自分とは中心に置かれた「磁石」のようである上に、世界全体も自分なので、「どこかへ行く」とか「対、何々」という主客分かれた前提の観念が成り立たなくなる。

だからといって、これを物理的に見ると、ただじっと座って何もしない人になるということはない。生活もするし、行動もするのだが。
その元となるものの見方、生きる姿勢が全く違ってくるのだ。

どんな人でも、自分とは何かということを正しく把握すれば、このような「見方・感じ方のシフト」が起こる。起こらざるをえない。
そして根底からシフトしたときには、「ああ、私もその考えは知ってるし、理解してるよ(でも、実際の人生ではどうかな)」という疑念を残した態度にはならない。

どこにも行かない、何にも働きかけない。「何かをしなければならない」の幻想は消える

これから話すことを、虚無的な意味で受け取らないでほしい。
そうではなく、これまでもあなたが、霊的自己の次元ではしていたことを、明快に説明するのでよく噛み砕いてほしい。

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