未消化要素を投影するらせん

これさえあれば、すべてが変わる! これさえわかれば、意識が完全に転換される!
魔法の杖の一振りのように、心の世界においてもそんなドラマチックな体験を求めていないだろうか。

人間にとって、ある人が人生のあるポイントでenlighten(啓発)された話を聞くのは刺激的だ。自分自身にも同じように劇的で、目の覚めるような体験が起こらないものかと願いがちだ。

実際、そうした経験は人生の中でしばしば起こるものである。
けれどもそれでもし、あなたの人生「上がり」であるならば、その後生きている必要はないということになる。

多くの人が見逃してしまうのは、劇的な体験の前後にその人がどう生きてきたかという「継続的な心の状態、内面での姿勢」についてだ。
表層に現れたピークだけに注目して、それを起こした要因を見ていない。
ある人がどんな人生を歩んできたのかという形態や出来事に手がかりを求めても、内容、物事をその物事たらしめた本質を理解することはできない。

「わかっているつもり」になることは簡単だ。
マーケティングの手法で「共感」を意識したやり方があるが、それは多くの人が感情移入できる「共通の型」があるという前提で行われている。
受け手が、ある人のライフストーリーに涙したり胸を打たれたりして、うんうん、わかるよとなるときに、その人は自分の人生の中にあった似た要素を思い出し、それに重ねることで自分自身の心を震わせている。
自分の内にある未消化の、出口を求めている感情が心地よく「共感によって発散される」体験となり、結果として、対象となった者への親近感や特別な繋がりを感じることだろう。

しかし、ごくありていに言えば、それはあなたの中で、あなた自身に対して起こった共感なのだ。

共感の対象となった相手は、鏡に映るあなた自身の姿の「代用」だ。
あなたはその人の姿を利用して、自分自身を体験している。
本当のところ、対象となった人物がどんな人間なのかまではあなたにはわかっていないどころか、そのことは関係がないと言ってもいいくらいだ。
パペット(自作自演の操り人形)であることさえ、役割として果たしてくれればね。すると、後には、あなたはその対象に失望することすらできる!

そうやって、私たちは自分自身の心を外に投影した世界を生きている。
誰かを気に入るとき、文句があるとき、愛されたと思うとき、傷つけられたと思うとき……見ているのは自分自身の心のドラマであることに、なかなか気づかない。

私は元来、「悟り」という言葉が好きではないのだが、その理由は、「このポイントに達したら終わり」との単一のゴールがあるかのように錯覚させてしまいそうな向きがあるからだ。
しかし、きっかけという印象を与えやすい「目覚め」や「啓発」という語に比べると、悟りという言葉の持つニュアンスの方がより文脈にふさわしいと感じるときもある。

その「悟り」だが、劇的な悟りは素晴らしくあなたを解放することもあれば、非常に厳しくあなたに「本当の現実」を突きつけることもある。
「本当の現実」とは、あなたが普段リアルだと信じている、五官で経験している世界のことではない。

あなたの内にある世界のことだ。

自分のことを正確に把握すれば、自分が自分の意識によって何をしているかに責任をとらざるをえない。目をつぶり、知らないことにはできない。
その責任を一部でも免除するならば、しっぺ返しは自分に来る。
責任をとるという言葉を嫌がる人は多いかもしれないが、幻想を信じていた自我にとって最も嫌なことは「悟ること」だと理解してみたらどうだろう。
真実をわかっている自己にとってはそれは当然よろこびになるが。

私たちは、生きている間にわかりやすいゴールがあると思いたいのだ。
旅を、探求を、終わりにしたい。
だから、永遠に自分の認識を変え、二度と自分と向き合わなくて済むような「鏡の中のアイテム(人や物や教え)」を探すのだ。

それさえ手に入れればOK! これをマスターしておけば終了!
「終わった! ゲームの上がりだ!」と言って、はればれとした顔でひと息つきたい。
そんな幻想を抱いている。

未消化要素を投影するらせん

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