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優秀さを定義できないサラリーマンの戯言

ビジネスの世界に飛び込んで9年、あらゆることを見聞きし、経験してきました。
しかしここにきて、自分があまりにもしっくりこない言葉があります。

『優秀』

特にビジネスの場でよく耳にするこの言葉にちょっとした違和感を抱えています。
今回はどこにその違和感を覚えるのか、因数分解しながらnoteにまとめたいと考えました。
是非、俗に言う優秀さを持ち合わせていない人間のひがみと戯言だと思って読み進めてください。

優秀ってなに?

そもそも優秀さってなんなんでしょう?
よくそんな疑問にぶつかります。
辞書によると人の能力が優れている様だそうです。(そのまんまです。)

おそらく学校の成績がオール5だったり、野球でいうところのエースで4番、これらはその分野における優秀という定義に当てはまるのかもしれません。
会社でも、そこで求められる評価指標の中で秀でていれば、文字通り優秀なのでしょう。

一方で、ビジネスの場において個人が『優秀』という言葉を使う時はどうでしょか。
大抵の場合は、その人独自のものさしで測った上でジャッジしている事が多いように思います。

誰かの個人的なものさしで測っていた場合、そのものさしは本当に正確なのでしょうか。
またそのものさしは激しく変化する時代の中でも正確さを保ち続けるのでしょうか。

どうしてもその疑問を払拭できません。

そして、この『優秀さ』という幻想が組織の発展の妨げになるような気がしています。

エースと4番の活躍だけで甲子園を優勝できるのか

急にスポーツで例えたくなるのが体育会出身者のさがです。
ビジネスでもスポーツでも俗にいう優秀とされる人が1人いれば、短期的には良い結果が出る可能性は高いと思います。

しかし中心選手が常に良いパフォーマンスを出し続けられるとは限りません。


自分の実体験の話をします。

沖縄県の興南高校野球部に在籍していた高校時代、3年生の時に春夏連覇を経験しました。

間違いなく、その中心はエースの島袋洋奨(元ソフトバンクホークス)でした。
しかし甲子園での11連勝を振り返ると、島袋が序盤で5失点した試合があったり、4番の真栄平が準決勝まで全く打てなかったりということもありました。

その中で勝ち続けられたのは、他の選手の活躍が大きかったと思います。

特にめざましたかったのが9番バッターの大城滉二(現オリックスバファローズ)の成長でした。
彼は春の準決勝まで打率は.250でしたが、決勝戦では3安打を放ち、ショートの守備では好プレーを連発していました。

そして夏も得意の守備でチームに貢献しながら、打撃も.421の好成績を残しました。

伏兵である彼の成長なくして甲子園春夏連覇はなかったように思います。

決して中心とは言えない人の成長と活躍によって組織が大きな成果を成すこと、私はこれを勝手に『9番バッター理論』と呼んでいます。

つまり、チームや組織には中心的な役割を担う人もいれば、それを支える人がいます。1人が良いパフォーマンスを出せなくても、他のメンバーがカバーできれば成果を上げられて、長期的な発展に繋がっていくのではないかと考えています。

もちろんビジネスの世界なので、高校野球のような青くさい綺麗事が通用しないことは認識しています。
人の能力や期待値に応じた役割はあると思います。

しかし、優秀な人とそうでない人、というグルーピングをしてしまう空気があると、そうでない人達のモチベーションは低下し、組織全体のパフォーマンスが落ちてしまうと言うことを実体験からも感じています。

優秀さなんてただの幻想

優秀という概念自体は間違いなくあると思います。
ある個人をそう評すること自体も否定しません。


ただ、そもそも人間なんて"不完全な欠陥品"です。(ビートたけしさんが使っていた表現です。)

私も優秀さなんてただの幻想だと思っています。
その幻想を追い求めて疲弊する人を沢山見てきました。

しかし、人は不完全な欠陥品でありながら、可変可能であり、モチベーション1つでパフォーマンスが大きく変わることもあります。

優秀かどうかで判断してしまう思考が人の良さや良いきっかけを見落としてしまったり、バイアスをかけてしまったり、その人の良さを説明できなくなってしまうように思います。
組織においてそれは大きな損失です。

少なくとも自分は組織の中で優秀なんて言葉は使いたくないですし、仮に奇跡的にそう言われたとしても『黙っとけ』と内心思っちゃうんだと思います。

変化する環境の中で世の中から求められることを認識し、自分達にできることをやるかやらないか。
そこに個人の優秀さという幻想は、邪魔な要素に思えてなりません。

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