ワンフレーズ

「死臭がする」
 深夜の二時過ぎ、交差点で信号待ちをしていた時だった。唐突に声をかけてきたのは白いフードをかぶった小柄な少女だった。人も車も通らない信号機の前で、歩行者信号が赤だからとぼんやりと突っ立っていただけである。最近死体と触れ合ったような記憶もない。そんな特殊な状況が頻発するようなファンタジーの存在ではない。しがない大学生なのだ。というか、そもそも俺に話しかけているのだろうか。
 とりあえず無視することにする。幽霊には反応を返さない方がいいと友人が言っていたのをふと思い出す。少女が幽霊だと決めつけているわけではないが、仮に普通に生きているならファーストコンタクトがどういうものであれ、あとから挽回がきくだろう。反応を返すにしろ、死臭とはなんだ。妄想の取っ掛かりにするにはいささか物足りない気もする。
 俺は幽霊を信じていない。友人にそういう話題が好きなやつがいるというだけだ。やれオカルトだミステリーだと嗅ぎ回って仕入れてきては嬉しそうに話すのだ。楽しそうで結構だが、俺の脳みそのメモリーに否が応でも刻まれていくその類の情報はきっと今後の人生において何の役にも立たないのだろうと思うと辟易する。可愛らしい友人が可愛らしく話しているのを聞いている、その時間の意義はそこだけに尽きるのだと思うと、俺の献身っぷりにもほとほと呆れてものが言えないというものだ。まあ可愛い友人の話はさておき。
 信号は変わらなかった。さっきからずっと赤のままだ。ぶっ壊れているんじゃなかろうか。少女は隣で俺の方を向いたままだ。一体何の真似だろうか。この子もぶっ壊れているんじゃなかろうか。
 適当に引っ掛けた言い回しに心の中で少し笑って、それでも変わらない信号になんとも言えない気持ちになる。こんなに長かっただろうか。車通りもないしさっさと渡ってしまえばいいか。
 そう思って一歩踏み出した。少女がこちらを見ている。「ほらね」と少女が言った。俺は少しだけ視線を少女に向けた。何が「ほらね」? 右足の先が左のふくらはぎに引っかかる。足がもつれたのだ。疲れているのだろうか。転ぶのを踏ん張って耐える。片足のまま一歩二歩、ぴょんぴょんと跳ねて進み、倒れ込む直前に右足がバランスをとるのに役立つ。「セーフ」と思わず口に出す。言葉はエンジンの音にかき消される。何がほらねだ、何も起きないじゃないか。少女を振り返る。横断歩道には誰もいない。エンジン音が大きくなっている。足元が照らされている。ちょうど俺の立っているところは背後から車が走ってくる車線上にある。クラクションの音が聞こえた。感じたことのない衝撃と、宙に舞う視界と、それから、交差点のところに白いフードの少女がいて、口元が笑っていて、「おやすみ」とゆっくり動いているところまでは見えた。

(20181011 習作)

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