ビリギャルから吸収するべき事

 高校内での順位が最下位に近しいところから恩師に出会い、現役で慶應義塾大学に合格した「ビリギャル」のお話。高校で最下位でも慶應に受かるんだ!と一見思ってしまうが、実際彼女は進学校の最下位で中学受験を経験していて元々地頭がよくて…だから彼女の自伝は全部信用に値しない。正直、高校生の頃はそれを真実だと思っていた。彼女の経歴は事実だ。ネットの狭い界隈の言葉や考えについて真実だと思っていたのだ。

 一般受験で精神が疲弊していたのもある。某大学の英語の問題で「生存性バイアス」なる概念を扱った長文の和訳を読んでいた時、ビリギャルの例はまず頭に浮かんだと思う。ただ、今思えば彼女のような経歴を得ることは誰も出来ない。いくら自伝が鼻につこうが、吸収すべきものはきっとあるはずだと思っている。自分は結局受験に失敗して、滑り止めで受けた日本大学に進学した身。ふと通学途中にビリギャルの事を思い出して(電車内に坪田塾の広告が張り出されていたから。)、それに関するサイトなどを漁り読んで思ったこととかを色々交えて話す事にする。要は読書感想文みたいなものなので、国語が出来なかったから理系に進んだ人間の駄文だと思って読んでほしい。

ビリギャルのモデルになった小林さやかさんのブログを引用しつつ話をしていく事にする。
 このブログに対しての自分の考えを喋っているので、こちらも是非読んで欲しい。


地頭信仰

日本人は「地頭」という言葉が大好きだ。

小林さやか|Sayaka Kobayashi『「ビリギャルは、元々頭が良かったんだよ。」』

 受験という世界で英語の成績を上げるためにはまず、単語帳を開いて英単語を覚える必要がある。ターゲット1900(旺文社)の様な単語帳に乗っている単語を、ページをぺらぺら捲りながら覚えていく。一度にインプットできる量は人によりけりで英単語を覚えるのにも一日10個覚えるのが限界の人もいれば50個まるまる覚え切れる人もいる。これはもう遺伝とかが関係してくるから、暗記量が少ないことに関しては受け入れるしかない。暗記に関してのコツは「覚えるまでやること」、「毎日継続できる量をこなすこと」というのは学校の先生も、塾で英語を教えていた先生も口を酸っぱくして言っていた。
 例えば英単語を毎日100個覚えられるけど続けられない人がいたとする。その人が力を全く出さなければ、きっと毎日20語しか覚えられないけど毎日それを続けられる人に差をつけられてしまうのだろう。だけど、差をつけるまでの過程を人は「努力」って言葉で片付けるだろうし、これを地頭のせいにすることはほぼ無い。

じゃあ、数学は?

 英単語と同じで公式を覚えて、問題を解く。式変形とかは発想が大事になってくる。要は頭を柔らかくして、ひとつの式を様々な視点をもって制していく。この発想は量をこなせば自然と付いてくるもので、余程の難関大学の問題とかでは無い限り「この問題、○○で見た事がある!」→「ならばこの考え方で行けば解になる!」という思考プロセスを踏むことさえ出来れば問題に手をつけられる。だけど、殆どの人、特に文系の人はその発想を突拍子もないものだと捉えて、解けない自分と解けている誰かとを比較して「地頭の良さ」という曖昧なメジャーで物事を測ろうとする。
これは結局どの教科に置き換えても言えること。
-数学を国語に変えて、文系を理系に変えて。数学の問題の解き方を現代文や古典の文章の読み方に置き換えて。
「どうして○○が出来るの?」に対して、「努力をしているから」と答えると地頭を言い訳にしない代わりに「努力は才能」だの「理系はセンス」だの言葉を変えて自分がやらない理由を突きつける。

 そもそも地頭って何だろうと思って改めて辞書に一瞥を交わした。

1 大学などでの教育で与えられたのではない、その人本来の頭のよさ。一般に知識の多寡でなく、論理的思考力やコミュニケーション能力などをいう。

goo辞書

 地頭の定義。どれだけ多くのものを知っているかには依存しない。一方、論理的思考力は地頭に直接的に依存するらしい。ただ、これも天賦ではなくて後付けで幾らでも鍛えようがあるものだったりする。以下の通りである。

1. 書籍を読んで理解を深める
2. バイアスをかけて物事を見ないよう心がける
3. 仮説を立てて検証する
4. 数字をもとに考えを深めていく
5. 常に言語化を意識する
6. 結論と根拠が一貫しているか意識する
7. 他人と討論(ディベート)を行う

人材アセスメントラボ『論理的思考とは?ビジネスで求められる理由や注意点、鍛え方まで解説』

 言っていることは難しく聞こえるが、1番に関しては小学生の頃から様々な本を読む習慣さえつけていれば地頭は良くなるという事か。2~7は少し難しいだろうが、高校の偏差値とか中学の偏差値のような指標を除外して、それをすることを心がけていれば自然と身につくものと言えるのだろう。
 上記の情報を基に話を広げると、では小林さんが今まで言われてきた「地頭」は何の事を言っているのだろうか。思うに、彼らが口を揃えていう地頭とは、問題を解くテクニックの豊富さ、受験を若い頃から経験したか否か、そもそもの出身校などだと思う。それを彼らのいう地頭と決めつけてみると、彼女が言われてきた言葉に対して疑問符がつくようになる。以下で彼女が言われたとされる言葉を列挙してみる。

「でもさやか、中学受験してるじゃん」「うちらは本、読まないよ」

小林さやか|Sayaka Kobayashi『「ビリギャルは、元々頭が良かったんだよ。」』

「さやかちゃんはやっぱり頭がいいんですよ!うちの子は地頭が悪いから…」

小林さやか|Sayaka Kobayashi『「ビリギャルは、元々頭が良かったんだよ。」』

「ビリギャル見て俺も慶應行こうと思ったけど、元々頭がよかっただけなんだろ?無駄に夢見させんなよ」

小林さやか|Sayaka Kobayashi『「ビリギャルは、元々頭が良かったんだよ。」』

 地頭=天賦の才であると。そのように捉えてしまえば言っている人々は「地頭は頑張れば鍛えられる」事実から目を背け、「神かなんかが与えた生まれ持ったもの」として地頭を崇拝している事になる。これがエスカレートするときっと「努力=才能だから限られた人しか頑張っても成功しない」という論調に変わってくるのだろう。
 それ自体が悪いことかというと、そうでは無いのが憎たらしい。ただ1つ、成功者がたまたま持っていた条件を言っている本人が持っていないことを妬んでいると思われないように「地頭」や「才能」という言葉を使って自分が頑張らない理由をぺらぺらと喋っているだけに過ぎないのは事実であると思う。

結果主義は努力を踏みにじるのか?

 日本は結果主義だ。どれだけ「頑張った」と言ったとしても結果がついてこなければ、それは自分にとっては「頑張っていた」としても他人からすれば「別に頑張っていなかった」事になる。
 例えばの話、ゼロから明治大学を目指している生徒がいるとして必死こいて勉強に励む姿を友人や家族は「凄い頑張っている」と評価して、まるで自分事かのように応援してくれるはずだ。しかし、結果は明治大学に不合格で終わってしまった。そしたら、殆どの人が手のひらを返して、初めから「お前は無理だと思っていた」みたいに「まぁ、頑張ってなかったしね」と当然の如く言ってくる。仮に合格したとしても、心の底から喜んでくれる人は1人2人いれば十分である。実際は「そりゃ受かるって」なんて言葉が殆どの人から吐き出される。
 そう考えると、自分の置かれた環境はまだ可愛いものだ。本番を迎える前までに真剣に受験科目に向き合った自分を、受験結果が思ったように振るわなかった自分の事をこれまでの努力も全て引っ括めて評価をしてくれたからだ。

ネット上で匿名でなにかを言ってくる人たちと全く同じことを、友人たちまでもが、言った。

小林さやか|Sayaka Kobayashi『「ビリギャルは、元々頭が良かったんだよ。」』

ビリっけつから慶應義塾大学に合格したから、いや、したとしてもこれだけ言われてしまう。不合格なら…対してネットで話題になるはずは無いが周りからはこっ酷く言われる事だろう。「やっぱ無理なんだよ」とか。

「残念ながらね、そうはならないよ。」

小林さやか|Sayaka Kobayashi『「ビリギャルは、元々頭が良かったんだよ。」』

 彼女の恩師である坪田先生(坪田塾の塾長)は、この後に「成功したら、みんなが心の底から凄いと言ってくれる」と思っていた小林さんに現実を突きつける。
 努力をしようがしてなかろうが、人は好き勝手に言う生き物だから成功したら「頑張ったね」と返ってくるだけではない。そこに嫌味が足される。この「頑張ったね」という文言も、ため息混じりだろう。

 結果だけを見て物事を判断する結果主義自体は、実際に傍から見て頑張っている人間からしたら勘弁してくれと思うくらいには厳しく残酷な思想だ。残酷だけれど、基本的に日本はこの思想が基盤となって動いているから、受け入れて前に進むしかない。結果がどうであれ戯言を吐く人間は生きていればいくらでもいるが、こういう人間の一挙手一投足を耳に入れるな、目にするな。口にするなと言うのは小林さんの言いたい事の一つであると思っている。

未来の自分の幸せのために必要だった!と本人が前向きに捉えられるかどうかは、そのときの大人がくれる言葉に結構かかってると思う。

小林さやか|Sayaka Kobayashi『「ビリギャルは、元々頭が良かったんだよ。」』

 上に書いた自分の考えは成功した人に対してはそういう嫌味とかを抜きにして心の底から褒めてあげて欲しい。マイナスの感情を抱かないようにしてほしい。という彼女の本音を曲解したものなので、あまり真剣に捉えないで欲しくはある。
 確かに彼女の言う通り、誰かの言った言葉の1つ1つで人の気持ちは大きく左右されるからいつになるかは分からないけど、「結果だけ」を見るんじゃなくて、「今までを考慮した上で結果を見る」みたいな結果主義であれば、少なくとも多くの人が楽な気持ちになるのかもしれない。

『説得力がある→自分には当てはまらない』へのすり替え

 自分が今、実際の受験体験を基にした自伝を書いたとしても誰の目にも止まることは無い。仮に止まったとしても、説得力が無さすぎる。少なくとも偏差値という色眼鏡を掛けているうちは。「日本大学にしか受かんなかった人間が努力語んな」なんて言われそうである。では、自分は理工学部の数学科に在籍している人間なので、仮に数学科で首席になったとして、その経験談を「数学科の首席になった話」として書いたらどうだろうか。その果てに「大学受験に失敗したけど、めちゃくちゃ努力して所属学部の首席になった話」を書いたとしたら?これには説得力が生まれる。「受験に失敗しても、成功の余地がある」事に深みが出る。
 ただ、この本の中で自分の境遇や(受験の)戦績などを書き連ねたり、問題集にどれだけ向き合ったかについて語ると何故か「自分には当てはまらない」と考える人が現れる。そういう人ほど「努力を語るな」と言うし、成功した人間には「努力は才能」と言い放つ二面性を持っている。成功した人間の言っていることに深みが出てほしくないから、文章や人格の粗を探す。その結果なのか、彼らが辿り着く答えのひとつが「自分には当てはまらないからこの本を読んでも意味がない」というものだ。
 Fラン大学就職チャンネルというYouTuberが、これに近しいテーマを動画内で扱っていたので共有したいと思う。この章での自分の意見は下の動画の語り部のものと同じである。

この動画の例で行くと、ビリギャルの自伝を読んで「高校で最下位でも慶應に受かるんだー!」と馬鹿正直に受け止めてしまう人は1番目、「慶應受かったって言ってもお前進学校出身だし中学受験してて地頭いいんだから」と斜に構えてしまう人は2番目だろう。「自分はビリギャルのようにはなれないけど、自伝から吸収出来ることは何だろう」とポジティブながら客観的に考えられる人は3番目ではないだろうか。
 少なくともビリギャルに関しては2番目の人が多いように見受けられる。

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