かぼちゃと私

かぼちゃが食べたい。
突然その恐ろしい思考に頭の処理能力が全部持っていかれた。
かぼちゃが、食べたい。
今すぐにでも食べたい。
普段なら父娘二人暮らしの家庭、キャベツさえひと玉食べきれない我が家にかぼちゃ丸々なんてとても食べきれないと理性的に四分の一を買う算段を立てるところだが、今は衝動のまま愛のままに、あの緑の愛らしいフォルムを手に入れたくてたまらない。
うちは田舎だ。近隣のスーパーは八時には閉まる。残念ながらこの情熱は明日に持ち越すしかないようだが、あまりにもそれは酷というものだ。
私はこんなにもかぼちゃを求めているというのに。
今、人生最後の食事に何が食べたいかを聞かれれば、

お気に入りのフレンチ・ブションの鴨コンフィも、
月一食べたくなる父が作ってくれるカレーも、
最近運命の出会いを果たし、昼間食べたにも関わらず夜ごはんにも食べに出向いてしまったベビーフェイスプラネッツのナポリタンも、
北陸の海産物も、
永遠の恋人ジャンポールエヴァンのボンボンショコラも、
(以下割愛)

名を挙げることなく、間違いなく「かぼちゃ!」と神だか地獄の番人だかに告げるであろう。かぼちゃを食べるまではどうあっても死ぬわけにはいかぬ。

あまりにもかぼちゃ食べたすぎて、普段はツイッターのアカウント名やアイコンを変えたりしないのに名前を「かぼちゃ」にしたし、アイコンも緑色の可愛いかぼちゃのイラストへと変更した。
某演劇の制作・T中氏には、
「真剣に誰か分からなくてツイート遡りました笑」
と言われてしまった。(因みに彼は今プリンになりたいらしい。しばしの間、二人ユニット「かぼちゃプリン」を結成中である)
さらに滾る感情の許すままに、先程三十分間ツイキャスを行った。無論議題はかぼちゃについてである。
今食べたいかぼちゃ料理のレシピが主な内容で、きっちり二十九分四十秒喋った。
一つの食材の話題で(実は途中で他の話題も話たけれども)三十分喋り続けるという変態的なキャスであった。お付き合い下さった方には感謝感激雨霰の気持ちである。

今食べたいかぼちゃ料理は以下の通りである。

かぼちゃのそぼろ餡
かぼちゃスープ
ローストかぼちゃ
マスタードグレーズドかぼちゃ
かぼちゃグラタン
かぼちゃのシェパーズパイ
かぼちゃとスパムのホイル焼き
かぼちゃの天ぷら
蒸しかぼちゃ
かぼちゃプリン
かぼちゃパイ
ローストかぼちゃの種
etc...

決してバターナッツかぼちゃではない。
あの緑の、日本でよく食べられる親しみ深いかぼちゃが良いのだ。
さつまいもにも似た甘みと繊維食感、甘いお菓子にも、ご飯に合うおかずにも合う不思議で魅惑的な野菜のかぼちゃ
パンプキン、という跳ねるような音も可愛いけれど、かぼちゃ、という少し不恰好にも取れる音には普遍的な安心感を覚える。
かぼちゃ、気づいたらベランダに生えてたりしないかな。
あまりにも食べたすぎて、明日会う予定の恋人に「ごめん、かぼちゃ買ってきてくれない?」と頼んでしまった。
四分の一の小さいやつでいいから、とは言ったものの、もっとがっつり食べたい。
家にたまたまミートソースとチーズがあるし、わりと簡単にホワイトソースを作る方法を見つけたので、かぼちゃさえ手に入ればシェパーズパイないしかぼちゃグラタンができる。
そこまで手を加えなくてもオーブンがある。きっと美味しいローストかぼちゃができる。オリーブオイルと塩、ブラックペッパーもある。最強だ。

かぼちゃ、ああかぼちゃ。
思えば実家ではあまりかぼちゃの煮付けが好きではなかった。
かぼちゃの煮付けをよく作ってくれたのは祖母だったが、祖母のかぼちゃの煮付けは味付けが濃く、私にはアンバランスな食べ物に思えた。私は自分の認識と食べ物の味がずれる事が非常に苦手だ。
甘いはずのものがしょっぱく、しょっぱいはずのものが甘くなるのが昔から許せなくて、飲んだり食べたりできない。
例えば桃のスープ。
スープなのに甘いのが理解できない。内容はジュースなので、ジュースと言われたら平気だ。
例えばケークサレ。
ケーキなのにしょっぱいのが嫌だ。内容はパンだから、パンと言われたら食べられる。
多分言葉としての認識が強いのだと思う。
そんなこと、ありませんか。
かぼちゃの煮付けは煮付けだからおかずだけど、甘いから嫌だった。大学芋をおかずにはしないのに、なぜほぼ同じ味付けのかぼちゃの煮付けはおかずになるんだろうと思っていた。
それ以来、なんとなく避けていたかぼちゃではあるが、ある時ふと「自分はかぼちゃが嫌いなのではなくかぼちゃの煮付けが嫌いなだけなのだ」と気付いた。なぜ気付くに至ったかは忘れてしまった。しかしそれを機に、私は少しずつかぼちゃに触れ、かぼちゃの天ぷらや蒸しかぼちゃは喜んで食べるようになった。
相変わらず、かぼちゃは甘み、つまりデザートの部類だと思っている節はあるのだが、食事の過程でちょっとした甘みが欲しくなった時に丁度良い。私はデザートのフルーツやお菓子なども食事の合間に挟む派であるが、外でこれをやるとドン引きされるので外ではできない。しかしかぼちゃであれば堂々と食事に組み込むことができる。嬉しい限りだ。

あーやっとかぼちゃ熱落ち着いてきた。
これを書きながらも、クックパッドやその他料理サイトで数多のかぼちゃ料理を調べていた。
次々と美味しそうなものが出てくるが、かぼちゃを見続けるというセラピーの結果、劇症型かぼちゃ熱発作は一時的に収まったようである。
やはり丸々のかぼちゃはうちの家庭には大きすぎるように感じるので、明日は四分の一、多くても二分の一に留めたいと思う。
精神的にはもう少し食べたい、調理したいところだが、発作中でも頭の片隅では

(しょーみ半分も使いこなせるかわからんよな...)

と思っていた。
美味しいものは人を幸せにするけれど、ばっかり食べは良くないって、お父さんも言っていた。
ここは明日のスーパーでかぼちゃのサイズと値段をにらめっこし、的確なサイズ、価格のかぼちゃを見極める必要があるのだろうと覚悟して、私は床につこうと思う。

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