見出し画像

行きたいところにやっと行けた

「まあええわ」でやっていく

個人アカウントのnoteを書くのめっちゃ久しぶりなんですけど、新たに登録するのも大変そうなので(笑)、ここにバーっと書いてみます。
※5~6年前のまだ学生だった時のnoteもありますが、(なんかめっちゃモジモジしてて恥ずかしい感じの独り言感満載のわけわからん記事ですが)
「まあええわ、とりあえずここに書こ。。」って吹っ切れて行きたいと思います!!!

「note書かんなん!!」ってなった理由

先日2024年元旦に発生した能登地震の震源地にあたる珠洲市に4日間行ってきたからなんです。
そこで見聞きしたこと一言一句全部アーカイブできたらどれだけ有益なのか・・・と思うことばかり。対話の中で都度考えさせられ、流れていく時間にまずいまずい残さねばと焦っておりました。
ただその話を書く前に発災直後の状況も書かせてください・・・。
(文章長いし遠慮なく金沢弁って言うんかな?能登地震シリーズは方言ガンガン使います。何言ってるかわからないところは飛ばしたり流してもらって全然大丈夫です。笑)

2024年1月1日・能登地震が起きた時

発災時は実家や祖母の家がある金沢に着いたタイミングで、1月1日〜4日くらいまで金沢市近郊・内灘町で過ごしました。発災中は祖母宅に向かうため香林坊あたりに車で移動中の時。卯辰山の斜面が迫る古家に住む祖母宅はやばそうと思い、急ぎ向かう。一応無事でした。

元旦は福岡空港から小松空港へまったり向かっておりました

しばらく祖母宅で様子を伺う事にし、実家に帰るタイミングを伺う。

無事やけどてんやわんやする

海沿いの実家は津波でやられたかなとか、帰れるんかなとか、羽咋に住む高専の同級生の安否確認したり(彼女は家族と金沢に向かう途中、私の実家近くでのと里山街道を走る間に揺れたらしく急いで町で一番高いところにある医科大に逃げた)。
祖母宅が揺れまくる中(古いせいか余震でも死ぬほど揺れた・・・)情報収集したり、犬の散歩がてら周辺状況確認したり(街道沿いには古家が多く住民がみな外に出て、外壁や塀が壊れて道路も地割れして被害状況を見て大変な地震だと気づく)、火鉢に残る火種の処理で祖母と喧嘩したり(喧嘩すな)。
今思えばおかしな状況で、てんやわんや。

結局実家は奇跡的にインフラが止まっておらず津波も来てないことを近所の人から聞き、恐る恐る浅野川沿いを走り、実感に到着しました。
(殆ど無事でした。)
帰っても余震と警報が鳴り止まず、家の上空にはヘリコプターが飛び交い、ああ、みんな能登に行っとるんやな・・・と。食料は正月なので死ぬほどあったから大丈夫でテレビとSNSに張り付く数日を過ごす。

1月2日に作った刺身盛り合わせ 作者:妹

友人の安否確認が忙しく、妹の親友が奥能登の大谷地区に住んどるけど、連絡が取れんと言っていて、実家に行きお母さんに様子を聞いたり。
(4~5日経って電波が繋がってやっと安否確認できた。大谷に向かう途中土砂崩れで道路が寸断され、近くの民家や車中泊でなんとか生き延びたとのこと)

同じ町内で液状化が激しい地域の方や、幼馴染の母の実家が七尾市にあり壊れたなど、周りの人に情報提供・罹災証明書の発行手続きを手伝ったりなどなど。
また2023年に竣工した金沢でのプロジェクトでお世話になった方が年末にお子が産まれてお祝いと、明太子が食べたいと言うことで年末に帰省した福岡でのお土産を持って様子見に行ったり。
(生まれたてほやほやのお子さまにこんにちわした)

実家から車で5分程度の場所の液状化被害。
道路が上下にうねって家や電柱が傾き平衡感覚を失う。

余震、警報、眠れん

ただ流石に余震が怖すぎてまたでかいの来るんじゃないか??と疑心暗鬼になり数日眠れず・・まだここにいた方が良いかなと思いながらも、やっぱり予定通り東京に一旦戻る事にしました。
東京に戻ってからは正直な気持ちを言うと、"揺れない、警報が鳴らない日常"に心から安心してようやく落ち着くことができました。

そこからはいつもの生活に戻り、目の前の仕事をやり・・・と、数ヶ月。
その間に能登に行きたい気持ちはずっとあり、また関東での友人知人からも行かないの??と言われたり・・なんかモヤモヤ&モジモジ期間がありまして。

東京にいながらモヤモヤする

「行きたい、でもどうやって??めっちゃ迷惑やろな・・・」って思ってまたモヤ&モジ。もう精神的にやばいところまできて、とある友人に連絡しました。
彼女は奥能登の珠洲市出身で震源地近くである高屋町に住み、まためちゃくちゃ今回の地震で一つの集落の二次避難に大尽力したとのことで。(それだけではないくらい現在も大きな役割を担っています。)
そんな最強の友人がまさかまさか高専の同級生(ここで出てくる高専の同級生は5年間同じクラスなので全然会ってなくても大体昔のノリで会ったら超盛り上がる)にいたので、恐る恐る「行ってもいい??」と聞き、快く「学びにおいで」と言ってもらえた。

「学びに行くってなんやろな??」

って思いつつ、とりあえず行ってみた。発災後約8ヶ月でやっと。
そんで行ってみたらびっくり。
(もちろん地震で壊れた町の驚きもあったけど)
能登の暮らしやそこに住む人の声を聞き、雷に打たれまくって帰ってきました。
お姉さまと呼びたくなる最強の70代、ほっこり90代、怒りの20代・・・などに出会う)
↑消そうかと思ったけど高屋を表す言葉かなって。

正直4日間飲んで話して毎日3時間くらいしか寝れてなくて、ドロドロに疲労&ものすごい情報量を浴びた状態で能登空港から羽田に戻ってきまして。
羽田で迎えてくれた親友(彼女も高専の同級生)とちょっと話して徐々に徐々に東京での日常に復活したという状態でした(笑)

お土産たっぷり

ちょっとした今回の珠洲滞在に至るまでの経緯を連ねました。
本題の珠洲編もぜひ・・・!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?