18回:塔の生活

銀天タワー

 商店街と呼ぶにはそこは多くのものが欠けていた。店は点在するだけで、他の建物はシャッターが閉まり物置になっていた。もちろん人は歩いていない。猫ばかり。大型ショッピングモールを建てさせない条例がある市の、旧中心市街地で。なるほど過疎地だろうか。いや市の出生率は全国屈指。人口は自然増だ。にも関わらずここだけが限界集落と化していた。
 物好きだから住むことにした。紹介されたのは塔。角にあるから台形型の造りになった3階建てプラス屋上。横は肉屋と惣菜屋、向いは化粧品店と菓子屋。その通りにはまだ店が幾つか残っていた。大学生が住んで毎日シャッターを開けるだけで、嘘でも活気が生じるらしい。

 シャッターにはインドネシアのアーティストが描いたグラフィティが施されている。海の神を模したものらしい。こいつの上げ下げを3年間ほど続けていた。それが自分の20代の前半の思い出の1つ。

自分だけがいる街

 夜になり、店もすべて閉まるとその一角には自分と野良猫とゴキブリしかいないような瞬間が生まれる。寂しさを通り越して不思議な感覚に陥る。街、とは何か。共同体、とは。そういうものが成り立たなくなる状態、とは。20歳の自分は街おこしなどする気はさらさら無かった。むしろ何かが無くなっていく過程を見ることに執着していた。それは事前に商店街の大人たちにも伝えていたし、それでも貸してくれる度量と諦観があった。
 パートナーもいなければ遊びに来てくれるような友人もいなかったので、ひたすらこの薄暗い塔に籠もっていた時期があった。2回生の終わりで必要な単位の殆どを取ってしまい、良くも悪くも大学に行く必要があまりなくなっていた時期。確か日本文学特講と美術史、あと染織の作業がある時だけ行ってた。糸よりも言葉を紡ぎたいとか何とか軽口を叩きながらダラダラと帯を織って怒られた記憶がある。浅はかで偏屈で、正面から人と向き合えないから友人が出来ないのだろう。
 私も何かにのめり込みたかったし、依存さえしたかったがそれがこの商店街というのも、一種のネクロフィリアみたいな感じである。たまに内地から大学生のグループとかが来ては「この街、面白いですね」とか言っていくのだが気休めにもならない。「お前にこの街の何がわかる」とまるで山犬の親分みたいな台詞を腹に抱えてモヤモヤしていた。お前にもわかるまい。

すばらしい日々

 銀天街では楽しいこともたくさんあった。馬鹿馬鹿しい事件も矢継ぎ早に起きた。それじゃなきゃ流石に住めやしない。それは次に書こう。
 このすばらしい日々は卒業して就職という月並みな選択で終わった。コザから那覇に引っ越すのだ。これほど難しいことはない。人気のない街角からいきなり30万人以上が屯する都市に移るのだ。都会暮らしは1年も持たずに破綻した。

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