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無と存在の意味を考え中【哲学】


本記事では、「無」と「存在」の意味に関して現時点で考えていることを書き残しておくことにしました。探求の方法論についての話なので無味乾燥にみえるかもしれません。「なぜ世界が存在するのか?」に関する実質的議論には(無謀にも)こちらの記事で取り組んでいます。

なぜ世界はあるのか【哲学】
https://note.com/s1000s/n/ne5e4bbb0e0a4

さて、本記事の内容ですが、なんだか当たり前のことを長々書いている気もします。この方向性だと常識や科学と両立した上でナンセンスな表現は排除していけるのではないかと思ってはいるのですが、自分でも自分が何をやっているのかよく分かってないところ多々です。

1 無はイメージでは分からない


無は、その語が喚起するイメージによっては捉えられないようです。真っ黒の空間や真っ白の空間ならば思い浮かべることができそうですが、そこには色の展開を可能にしている以上は空間がありますし、想像が持続しているということは時間的な幅もあります。これでは無と呼べそうもありません。

2 無の意味を考える


無がイメージによって捉えられないとしても、無の「意味」なら理解できるかもしれません。

というのもイメージと意味は別物だからです。イメージできないものならばその意味が分からないとは限りません。例えば、私には「千角形」を思い浮かべる能力はありません(十七角形とかでも絶対に無理)。ですが、千角形の意味は多少なりとも理解できます。「千の頂点と千の辺からなる多角形」のことでしょう。

ということで、無の意味について考えていくことにします。さしあたり気になるのは、「無」を名詞的に用いると、意味さえ理解できないということです。やってみましょう。

例文 あの人は無を経験した
   無を見た
   無を聴き、嗅ぎ、触り、味わった
   無を確かめることに成功した

いずれの例文についても、字義通りに解釈しようとする限り、いったいどんな状態のときに適切な文章となるのか分かりません。意味をとろうとするのならば、比喩ととる他ないでしょう。

対して、「無」が形容詞的・助動詞的に用いられた場合は、どのような状態を言っているのか容易に理解できます。

例文 宿題をするのは楽しくない
   シャチには羽がない
   廊下を走らない
   ここにモンシロチョウはいない

楽しくない・羽がないでは形容詞の「ない」、走らない・いないでは助動詞の「ない」が用いられています。いずれも意味のある文章です。

どうしてこうなるのか? 

私たちがすんなり理解できる「無」は、①何らかの理解可能な状態を前提にして、②それがない状態を指すと考えられそうです。

楽しい、羽、走る、居るなどは、①でいう「何らかの理解可能な状態」に含まれます。楽しいとはどんな感情か、羽とは何で、走るとはどんな動作で、居るとはどんなときかは理解可能です。こうした理解を前提にしていれば、それがない状態について語ることができるのです。私たちが理解可能な無とは、いわば「○○の無」「○○のなさ」だと言えます。

何らかの理解可能な状態が前提にないならば、「それ」が「ある」とも「ない」とも答えを出すことが不可能なので無意味です。「無」一つをポンとだすつもりで「無」と語ったとしても、その「無」という語は意味を持てないのです。「リンゴがない(すなわち、リンゴがある状態ではない)」なら有意味だが、「無いそのものがある(あるいはない)」などは無意味、といったところでしょうか。

なお、理解可能とは「どのようなときにそれが成り立っているといえるのかが分かること」だと考えます。

以下の文は抽象的ではありますが、どんなときに成り立っているのか理解できます。ゆえに、(たぶん)有意味な文なのです。

例文 誰もいない
   何もない

「誰もいない」とは、つまり「誰かがいるという状態ではない」の省略表現でしょう。「誰かがいる状態」はどんなときに成り立つ状態か分かります。例えば織田信長がいる状態です(①)。「誰かがいる状態」をすべて列挙して、その状態のいずれも実現していない(②)のが、誰もいない状態です。

同様に、「何もない」とは「何かがあるという状態ではない」の省略表現でしょう。「何かがある状態」とは、物体・性質・属性・動作等が一つ以上ある状態です。例えば文字がある「いま・ここ」の状態は、「何かがある状態」の一つです(①)。「何かがある状態」をすべて列挙して、その状態のいずれも実現していない(②)のが、何もない状態です。

とはいえ、いま上げた二つの例文は、「誰」が誰なのか、「何」が何なのか、探求すべき範囲を特定しようがありません。それでも理解可能な状態を前提に語っていると言えるのでしょうか? 私の説明だと、理解不可能な状態について「無い」と語っているのならば、無意味な文ということになるのですが。

まずはさしあたりの回答になりますが、たいていの場合については、「誰もいない」「何もない」は理解可能な状態をさすと思われます。というのも、(ときとして暗黙の)文脈によって、誰のいなさ、何のなさが問題とされているのかが特定できるからです。例えば、なめこの味噌汁が作りたいのに、なめこも味噌もない場合は、台所や地球があっても「何もない」といってよいでしょう。肝心なものが何もないのですから。

3 範囲制限なしの「何もない」は理解可能だが確認はできたことがない


有意味な「無」は「何もない」という意味です。「何もない」とは、「①何らかの理解可能な状態を前提にして、②それがない状態を指す」としてきました。ここでいう「理解可能」はかなり幅を広くとっています。

(1)理解可能とはイメージ可能ということではない

千角形はイメージできませんが、意味は理解できますから理解可能です。

五十三角形と五千七角形はどちらもイメージできませんが、どちらの角の数が多いかは即座に判断できます。つまり、イメージ不可能なもの同士の関係についても理解することは可能である場合があります。数やら意味やらについてもイメージこそできませんが、それらのあるなしが理解不可能とは言えないでしょう。

(2)理解可能とは定義可能ということではない

キリンを定義できる人は少数でしょう。しかし、多くの人は「キリンがいる」という状態を十分理解できます。「キリンがいない」とは、このキリンがいるという状態が実現していない状態を指しており、多くの人にはその意味が分かります。つまり、定義できないものについても理解できることがあり、その「なさ」についても有意味に語れることがあります。

(3)理解可能とは経験可能ということではない

人間には紫外線を視認できませんが、紫外線の存在を理解できますし、紫外線がない空間を考えることができます。同じく空気中の分子を見ることはできませんが、分子の存在を理解し、それがない空間を考えることはできます。

物理学においては、時空の存在について語り、時空がない状態について議論しています。人間は非時点・非地点に存在することはできませんので、時空がない状態は人間にとって経験不可能です。しかし、経験できない構造だからといって理解できないわけではありません。なにせ人類は数学さえできるのですから。経験不可能なことについても理解できることがあり、それの「なさ」についても有意味に語れることがあります。

(4)「何もない」は理解可能だが、確認できたことはない

探求する範囲を制限せずに「何もない」という場合、結局は世界にある「何かがある状態」をすべて列挙(①)して、その状態のいずれも実現していない状態(②)を指していることになるでしょう。これはイメージ可能ではなく、経験(実現)可能ではありませんが、理解可能です。

このように人間は「何もない」とはどういうことかを理解することができます。が、「何もない」を見つけた人はいません。この世界内ではいまだかつて一度もみつかったことがないものが、「何もない」というシロモノです。

余談ですが、よく「死とは無だ」などと言われます。この無は「何もない」を指したいのでしょうが、生まれる前にせよ死んだ後にせよ、せいぜい「意識のなさ」「人生でなさ」「私でなさ」が実現しているだけで「何もないである」とは言えないのではないでしょうか。つまりどういうことなのか? といわれると何とも言えませんが……。なお死生観をめぐる諸問題についても言いたいこと多数なので別途検討予定です(予定ばかりが増えていく)。

4 存在の意味を考える


「無」に関する上記の議論は、「存在」についても成り立つと考えます。

私たちが意味をすんなり理解できる「存在」とは、「○○の存在」「○○としてある」という意味で使われています。

例文 名古屋には犬が存在する
   レオニダス王には勇気がある

例文はそれぞれ、犬が生きているという事態や、勇気ある振る舞いをしている状況など、理解可能な状態が前提にあって、それがある状態であることを述べています。つまり、①何らかの理解可能な状態を前提にして、②それがあるということです。

何らかの理解可能な状態が前提にないところで、単に「存在」一つをポンと語ったとしても、その「存在」という語は意味を持てないのです。「リンゴがある(すなわち、リンゴがある状態である)」なら有意味だが、「あるそのものがある(あるいはない)」などは無意味、といったところです。

なお、以下の文は有意味です。

例文 誰かがいる
   何ものかがある

「誰かがいる状態」はどんなときに成り立つ状態か分かります。例えば織田信勝がいる状態です(①)。その状態がある(②)ならば、「誰かがいる」と言えます。同様に、「何ものかがある」とは、物体・性質・属性・動作等が一つ以上ある状態です。その状態のいずれであるならば「何ものかがある」と言えます。なお、「誰もいない」、「何もない」も有意味です。

無・存在という語が、「無そのもの」「存在そのもの」なるものを指しているつもりならば、それは無意味ですが、文脈上「何もない」・「とあるものがある」などという意味で使われているのならば、問題なく意味をとれる文章とみなせます。

5 無難な結論


長々と検討してきたこれらの事実から何が言えるのでしょう。さしあたり、以下のような言い回しが、実は無意味であることを示せそうです。

例文 存在が存在する
   存在が不在である
   が在る
   が存在しない

これらの表現は意味深長で格好よくみえますが(みえませんか? わたしはこういう言い回し好きです)、実は無意味な文ということです。

その理由は、名詞的に用いられている「存在」「無」が、何らかの理解可能な状態を前提としていないからです。理解不能なものについては、存在するとも無いとも言えません。もっとも、先ほど述べた通り、「存在が存在する」を、「〈存在そのもの〉なるものが存在する」ではなく、「何かが存在する状態が存在する」と読むのならば、意味は通ります。「何かが存在する状態」という理解可能な状態(①)について、それがある(②)といっているだけなので。同様の言い換えをするのならば、いずれの例文も意味をもちうるでしょう。ちょっとした表現の違いに見えますが、意味をもつ文であるかどうかは、そのちょっとした違いが決めるのです。

もうすこし哲学っぽい雰囲気をまとった次のような例を考えてみましょう。

――無は無をも無化する。ゆえに有が生じたのだ。

私はなぜ世界があるのかについて、大まじめにこう考えていたことがあります。ただし、今振り返るとどういう意味なのか、これだけでは全く理解できません。こういう言い回しは、言葉の不思議さとは関わっていそうですが、世界の不思議さに迫るものではないでしょう。

ただし、ここでいう「無」と「無化」を、ちゃんと性質をもつものとして定義するならば、有意味な議論が可能になるかもしれません。びっくりしたのですが、ほぼ同じ言い回しがノージックの以下の本に登場していました。

ロバート・ノージック「なぜ何もないのではなく、ものがあるのか?」『考えることを考える(上)』(坂本百大監訳、西脇与作・戸田山和久・横山輝雄・柴田正良・服部裕幸・森村進・永井均・若松良樹・高橋文彦・荻野弘之訳)青土社 1997年

ここでは、「何もないのではなくものがあるのは、かつてあった無が自らを無化することによってものを生み出したからである」(183頁)という説がざっくりと検討されています(182-184頁あたり)。何を言っているのか私にはよく分かりませんでしたが……。

とにかく、以上の議論の結論はこうです。「無」や「存在」を語りたいのならば、もっと問いを具体化し、「何の無さ、何の存在が問題なのか」を特定すべきである。

……いやしかし、ここまでした話なんて当たり前なのでしょうか? でもこの当たり前にたどり着くまでにけっこうな苦労が要りました。なんならこの記事で書いたことがちゃんと正しいのか、ぜんぜん確信がもてません。


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