結論と過程について メモ

書くということは考えることでもあるため、書いている間に書き始める前と考えの深度と方向性が変わってくるのは日常的なことである。日和見的な論理。考えるために書く。書くこと自体が旅。書くということは知るということである。思考することは知ることである。知るということの三段論法。言ってしまったもん勝ちの論理。
 

 前提をはっきりとさせることはそのために論理を紡ぐことになってしまい、前提さえひっくり返ってしまえばそれは家電製品をスクラップにするときのように言語装置全てが破壊に巻き込まれるということがある。成立のための補完。セールストークの欠陥。

 書かれた文章が一貫性のある文章であるように見えるのは、結果として整えられたものであるからであり、生成された順序を必ずしも表していない。その意味で、読むことと書くことは順序がまるで違う、ということはありうることで、読んだまま自分も文を書こうとするとちぐはぐな装置を作ってしまうという事になる。

 会話、あるいは語る、というものはそれが成立している限り意味は破綻せず、意味が意味を作り出し、化学反応的に連鎖する。それが論理。会話は相手の言葉に意味を紡ぎ、書くことは自己の思考から意味を紡ぐ。この差でしかない。会話と書くことの相違をあげるなら、書くことは日常的な行為ではないと言うことである。書くことは一人旅であり、同時にその回顧録であり、生成であり、過程に価値がある。会話は日常的で自然に発生するが、約束や会議など、その結論に価値の大部分があり、過程に価値があるとは限らない。
 

 書くことが旅なら、その過程が最も重要であって、その結論ではない。という事にもなる。トニックは終わりを示すため「だけ」の記号とも捉えうる。ループ音楽。結論が最も重要な意味を持ちうるのは、とにもかくにもはっきりさせたい仕事のような時間的欲求と行為に対する合目的性に対する重要度が前面にある。しかしそれは、服を着なければ外出できないように必要でかつ重要ではあってもそれ自体に価値に重きを置いていないということでもあったりもする。

 体験が価値を失わないのは、「過程」すなわち「時間」が最も濃密であり、目的そのものだからである。(お金に価値があるのも、「余裕」という「時間」が重要だからである。その意味で、過度にならない限りはお金を目的に仕事するのは目的に対する行為として正当である。)そして目的というのは、最も重要視されがちであるが、ある意味でそれは錯覚である。目的という「点」に捉えうる概念は、論理的措定に使用される欲求を格納する変数ではあっても、点そのものが目的であるように」感じるとすればそれは注意しなければならない錯覚である。

 論理的措定に使用される概念が「点」であるばかりに本当に欲しているそのものも「点」であると錯覚する。これは本当によく錯覚される。旅行ならば目的地は「点」だが、それそのものは本当の目的ではない。好きな人と過ごす時間、過程に最も価値があり、過程が目的である。


(目的=価値?
言葉とは?
意味と現象の多様性が「言い切ること」を難しくする。つまりヴィトゲンシュタインの「ナンセンス」の理由
価値を措定することで目的を設定することができる。「言い切ることができる」
立場をはっきりとさせること。あるいは判断材料を前もって「言い切る」ために絞ること。)

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