言葉と音楽の「心」⑶

いい歌とはなんだろう。時々不安になることがある。

しかし、その度に道しるべとなって私の惑った心を矯正してくれる曲がある。

それは銀杏boyzの「駆け抜けて青春」やtetoの「拝啓」などのパンクだったり、神聖かまってちゃんの「ロックロールは鳴り止まないっ」とか、SUNNY CAR WASHの「キルミー」のような邦ロックだったりするし、そうかと思えばグレイテスト・ショーマンの劇中歌の「This Is Me」や「From Now On」だったりもする。

特に「ロックンロールは鳴り止まないっ」の2015年のBAYCAMP、「This Is Me」や「From Now On」のワークショップでの歌唱は何度見ても心奮うものがある。

こうしたナマの歌が生み出す躍動は、あまりに格別に私の心を揺らしてきた。

こうした曲たちが感動を呼び起こすのは、一体どうしてなのだろうか。

ジャンルの違う歌ではあるが、その根底には共通するものがあって、それこそが私に「音楽ってこういうことだよね」という感を与えてくれる気がする。

それは、魂を削ることである。

歌は魂を削る行為であるなんて言うとあまりに臭すぎて馬鹿にされかねないわけだけど、本物の歌には恥ずかしがらずにそれを認めるべきである。

音楽とはどうにもならない内なる叫びを外に向けて発するためにあるのだと私は信じているし、それがなされているものが本物なのだと思う。

正直、歌のうまさは重要ではない。ある程度のうまさがあればそれで十分である。

ある程度のうまさが一体どう言うものなのかというのはどうしても個人の感覚によってしまう訳であるが、まあ聴きながらその曲を歌っていることが分かるくらいで実はいいんじゃないだろうか。

大切なのはその歌に込められた、その人物の生に他ならない。

歌を歌う本人がいかに自らのやりきれない、どうしようもない思いを切り出して、身を削りながら、その生を歌に込められるか。

自分の歌でなくても良い。その歌に思いを乗せられていればそれで良いのである。

そうしたはちきれんばかりに思いの募った歌が、真に人の心を動かすのだと思う。

これが音楽全般、例えばインストのような歌のない曲になると話は変わってくる。

そういう類の音楽の生み出す感動は、心に直接響きかけてくるというよりは頭に働きかけてくるという感覚の方が近い気がする。

もっと理性的で、知的な営みがそこには展開されているのである。

では、どうしてそこに歌が乗った時、思いが入ってくるのか。

それは歌が言葉を持っているからで、言葉が歌に乗っているからである。

歌はその音を言葉に託して伝え、言葉は音に乗って伝わって行く。

つまり、歌とその受け手との間には言葉が介在しているのであって、歌はその言葉のフィルターの影響をもろに受ける。

言葉は心が入って初めて「ことば」となるというのはもうすでに話したことであるが、「ことば」は歌と合わさった時、それが生み出された時に与えられた心とは別に、歌う者の心を受ける。

その心が入った言葉は一層強いエネルギーを持つ「ことば」となり伝えられていく。

そうして人はその力強さに胸打たれ、抑えきれない情動に従って進んで行く。

そのエネルギーこそが、歌の「魂」であり、言葉の「こころ」なのであって、歌の力を引き出すのは、紛れもなく言葉であり、そのどちらもの動力こそが、人の「心」なのである。

「心」は感情というよりは、生に近いと私は思う。

ただそこにある感情・気持ちではなく、身体のうちより湧き出るどうしようもないもの、それは生きていることそれ自体より生まれ出るものであるからして、まさしく命そのものであるとすら言えるだろう。

高校の頃、私の先輩は引退した文化祭の終わった時、こう言い放った。

「俺らは命削ってライブしてたんだ。」

この言葉をただの高校生が感傷に浸る中で、主人公気取りに言い放った、ただの青臭い戯言としてはいけない気がする。

むしろこの言葉には、音楽をするという事のはじまり、そしてその意味が極めて素朴に現れているのではないだろうか。

人が歌うのは、きっと歌うしかないからである。

人が書くのは、きっと書くほかないからである。

そうした切実なものこそが、本物となり、心を動かす。

少なくとも私はそう信じているし、そういうものを求めて感動できる人間でありたいと思う。

真の言葉と音楽は「心」からのみ生まれうるのである。

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