見出し画像

人生

今回は自分の全てを書きたい。
嘘偽りなく今の全てをさらけ出したいと思う。
どう捉えられてもいい。たぶん、みんなには理解されないことばっかりだと思う。でもいい。それが俺なのだから。


俺の人生は幸せに満ち溢れていた。

俺は何の為に生きているのだろうか。

人生になにを見出したいのだろうか。



俺は自分の力でここまでよじ登ってきたんだという思いがあった。
周りに支えられてここまで来れましたと表面上では言ってきた。だけど、正直、周りの力なんて関係ないだろ?俺の力じゃんとか俺が努力してきたからプロになったんだと思っていた。俺がプロという切符を掴み取ったんだと思っていた。

でも、今になって思うんだ。
自分の力なんて一つもなかった。俺の実力なんて大したことなかったんだ。
俺は今まで自由奔放に生きてたくさんの人に迷惑をかけながらそれでも応援してくれる人、支えてくれる人がたくさんいてかけがえのないものをたくさんもらって、プロになったのではなくプロにならせてもらったのだ。みんなの代表として、山口を背負って、たくさんの人に勇気や希望、そして夢を与える人間になってくださいねと役割をもらっただけなのだ。
ただ、運が良かっただけなんだ。
変なことを言うようかもしれないけど、これまでの結果もこれから自分が為していくことも俺の実力では決してない。支えてくれる人や応援してくれる人の力であり、それは与えられるものなんだと気づいた。

努力して頑張って競争をして1番になる。
いつも他人と比べ、誰よりも努力を重ねて、俺は高校選抜や全日本大学選抜に入ってきたと自負があった。
常に競うこと、争うこと、比べること、抜きんでることが大切だと教えられ、それを実践し勝ち抜いてきた。でも、なぜか分からないけどそれに満足できることなんてなかったし、続いたのはいつもプレッシャーだけだった。
俺は気付いたんだ。自分の努力でいける世界は本当の上ではないんだ。周りに応援してもらってみんなに協力してもらって上に上げてもらうことこそが本当の上にいけるんだと。努力を重ね1人で頑張ればその力はあくまで1な訳で、たくさんの人に頼る力は頼れば頼るほど大きくなり100にもなるんだ。
俺は周りと競争し、人と比べたり、頑張ったりすることをするべきではないんだ。

出会う人をみんな味方につけていく。

そういう生き方をするべきなんだ。
努力をするのは人と比べることや周りと競争するためではなく、あくまで自分が魅力的になるとかもっと良くなりたいという向上心のためにすることだ。

人の歩みには大なり小なり浮沈がつきまとう。上がりっぱなしもなければ下がりっぱなしもない。上がり下がりの繰り返しのうちに、人は洗われ磨かれてゆく。だから、たまたま上にいたとて、おごることはすこしもないし、下にいたとしても悲観する必要もない。要はいつも素直に謙虚にそして朗らかに希望を持って歩むことである。この言葉こそが自分の人生に当てはまるのだ。最近で言えば、試合に出れなくて悔しい思いをしたり、試合に出させてもらったり、活躍してヒーローになったこともあった、そして自分が試合をぶち壊したこともあり、それが続いたこともあり、またメンバーを外れたり。でもそれは高校時代からずっとそうだった。俺は上手くいかない時に謙虚ではなくなったと言われてきた。謙虚さを常に心がけていたものの謙虚さとはなにか俺には分からなかった。謙虚さの意味をずっと探していたんだ。ずっとわからなかったし、見つからなかった。でもやっと謙虚という言葉の解釈をした。謙虚さとは、自分の今の状況が自分の力ではなく、周りの人や仲間達、神様や守護霊、目に見えない力の存在のおかげであると思っていてそれに感謝を忘れないことなのではないか。謙虚であることは人生の大原則である。それを神様は色んなフィルターを通して教えてくれる。

俺の人生は常に波乱万丈だった。いつも底辺からスタートして、ちょっとずつ上に上がっていき、上に近づいて休憩しようとしたらまた下まで突き落とされてきた。それの繰り返しだった。
なぜなのだろうか。もしかすると俺はこのような人生を望んできたのではないか、俺の人生はこうしたいと決めて生まれてきたのではないか。たくさんの喜怒哀楽の感情があった人生の方が彩る。本物になるためには困難、試練、苦難、辛さを味わないとなれないんだな。だから、自分の人生は本物に近づいてるってこと。順境も逆境も素晴らしいものだ。大事なのは下に落とされた時にこれからもっと良くなるぜって思えるかどうか。俺にはいいことしか起きないのだから。下に落とされるのは悪いことのように見えてさらに良くなるためのきっかけに過ぎないのだから。俺の人生がこれから安定することはないだろう。俺は安定に生きれたことがないからだ。安定に生きれないこと、それこそが俺の良さだから。俺の人生は誰にも計れない、誰にも決められない、なぜなら俺しか自分の人生は決められないのだから。

多くのことを求めすぎていたんだ。
これがあれば、これがこうなれば、ないものを求めても意味はない。
ただ、足元に落ちている幸せを噛み締めて生きていけばいい。自分の好きなことをする。楽しいことをする。そんなことでいい。
人生の教科書なんか必要ないんだ、そこには常識という1番くだらない解答しか載っていないのだから。
自分で自分の教科書を作らなければならない。ヒントはどこにでも落ちてありそれを答え合わせをするのは自分なんだ。自分のやり方で自分の成功方法は作れるし、自分が創造できるんだこの世界を。
俺はなんのために生きるのだろうか。そのピースが少しだけ埋まったんだ。

"自分に与えられた才能を最大限に生かして自分をそして多くの人を幸せにすること"

俺は常に人生のチャレンジャーだった。思いっきり挑戦してすっ転びまくればいい。自分が幸せと思えるならすべてはうまくいっている。そして、自分が幸せならちょっとでもいいからみんなを幸せにしてみようと努力してみる。でも、実はそれは自分がたくさんの人によって幸せにしてもらってると気付くんだ。それを俺はプロになって教えてもらった。試合に出れることが幸せだった。自分の応援があることが幸せだった。あれだけの人が見にきてくれることが幸せだった。俺は、幸せを与える前に多くの人に幸せをもらっていたんだ。でも、幸せとは感じる人にだけ存在するものなんだって。幸も不幸もない。ただ、そう思う心があるだけなんだ。全ての人が指を指してこれが幸せだなんて言えるものなどないのだ。つまり、幸せは個人がこれを幸せだと思った時、そういう風に決めた時にそれがその人にとっての幸せになる。

俺は完璧になりたかった。変わろうとした。変わる努力をしてきた。常識を学びなさいと言われ常識を学び普通になろうとした、真面目になれと言われ真面目になろうとした、どんなひとの意見も何も言わずに素直に聞く努力をした、謙虚になれと言われて意味もわからず低姿勢になったり、謙虚ぶる努力もした。でも、気付いたらそんな自分が大嫌いだった。頑張ってなにかを我慢するとか自分のしたくないことを無理やりしてる自分に自信は持てなかったし、そんな自分を心から愛することはできなかった。親友に言われたんだ。流帆は流帆らしくいてくれと、それで俺は頑張れるからって。みんな口を揃えて、流帆らしい流帆が好きだと。みんなはありのままの俺が好きだったんだ。俺は何のために努力してきたのか分からなくなった。自分を必死に変えようとダメな部分を直そうと努力した俺はなんだったのか。俺の努力は間違っていた。あれだけ頑張った俺が辿り着いた答えは、俺が俺でいることだった。俺は誰のために生きているの?そう考えた時に俺は俺のために生きたいって思った自分がいた。世間は自分のために生きるのが良くないとかもっと人のことを考えて生きろなんて言うのだけど、自分のために生きない人生は果たして本当に幸せなのだろうか。それが正解と言えるのだろうか。

俺は何者でもありたくなかった。だから、俺は決めたんだ。俺は俺に近づくために人生を生きるんだって。どうせどんな自分になったところで批判や否定はつきものだ。なら、ありのままの自分って最高じゃないか。俺は世間の常識なんかでは計れない誰にも染められない素晴らしい人生を歩むんだ。
俺の生きる意味は菊池流帆になることだったんだ。

最後に

俺は夢という膨大な画用紙の中にいる自分という存在をクレヨンで塗りつぶした。
日本代表になったらとか海外のビックでやれれば自分に自信を持てるだろう、そんな自分を誇りに思えるだろう、幸せになれるだろう、尊敬されるだろう、そう思っていた。そう信じていた。でも、そう思っているうちは俺は幸せになることも自分を誇れることも一生ないだろう。俺は十分に幸せすぎていた。俺みたいな下手くそがプロになれたこと、こんなに上手い人達に囲まれてサッカーできること、それがもう幸せすぎたんだ。夢を追いかけてる俺が夢など必要ないのではないかと囁くもう1人の自分に押し潰されたんだ。夢があってそれに努力することは素晴らしい、サッカーをやるなら代表を目指すのが当たり前と俺は等身大の自分をクレヨンで塗りつぶし、夢を叶えた偽りの自分しか見ていなかった。日本代表にならないと自分に価値がない、結果を出せない自分は価値がない、サッカーしかない自分がサッカーをできないのなら存在している意味はない、そんな考えしかできなかった自分を俺は許してあげなければならなかった。サッカーは自分に幸せを見つけさせてくれる魔法の道具だったんだ。道具を借りている間は自分がその道具を通じてみんなに幸せを与えなければならない。サッカーより心の底から楽しめそうなものがあったら、サッカーよりやりたいことが見つかったのなら、俺はみんなに道具を預けて次なる旅に出るだろう。借りた道具は返さなければいけないのだから。その瞬間がいつ来るかは分からない。俺はサッカーという魔法の道具により根拠のない条件のない幸せを手に入れたのだから。

もう俺には何も求めることがなくなってしまった、必要なくなってしまった。見栄もプライドも執着心も他人からの評価も世間からの在り方もどうでもよくなってしまった。実績や経歴がある自分はすごいんだと結果だけを追い求めてきた。でもそんなもので俺が満足できることはなかったし、そんなもので満足できるわけがなかった。俺にそんなものは必要なかったんだ。なぜなら

なにもない自分が1番すごいんだと自信を持て、誇りに思えた、そんな自分を愛せるようになったからだ。なにもないが俺にとっての最強だったからだ。

いや、俺にはもともとなにもなかったんだ。ただ誰よりも運が良くて、人間関係に恵まれただけだった。それを自分の実力だと勘違いしてきただけだった。俺はこれ以上に何を望めるだろう。夢も希望も必要ないのかもしれない、ただ今の現状に幸せを感じることしかできない、なんの不平不満も愚痴も文句も泣き言も出てこない、今目の前にあるものを楽しみ、味わうことしかできないだろう。どれだけ自分が恵まれているか、ありがたい状況にいるか、幸せであるかを認識させてくれ、そしてなによりこんなにもたくさんの仲間や周りの人達の縁を繋いでくれたサッカー。それを小さい時から今まで続けさせてくれた周りの方々、いや、俺に関わってくれた人すべてに感謝しなければいけない。俺はあとどのぐらいサッカーを続けさせてもらえるのだろうか。
やっぱり正解はなかったようだ。
自分の良いも悪いも全てを受けいれて他人に良いも悪いも求めないそんなありのままの自分を愛すること。それが俺にとっての全てだった。
俺はみんなに感謝し、与えられた運命をただ一生懸命に楽しみ生きるだけだった。
やっぱり俺はサッカーが大好きだったんだ。たまらなく大好きだった。サッカーをしている自分が大好きだった。俺を見てくれる人をそして関わってくれる人を喜ばせることが自分の生きる喜びになっていたことに気付いた。人生は美しく素晴らしいものだった。

**人生は自分探しの旅だったんだ。
成功が約束されている旅であり75億分の1の自分を探す誰にも邪魔されない最幸の旅だったんだ。
**


















この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?