見出し画像

僕が美容師を目指し、渡米し、そして美容室を経営するようになるまで(中編)

こんにちは。東京・三軒茶屋でStoopという美容室&コーヒースタンドを経営しています、溝田 隆幸です。

自己紹介代わりの「僕が美容師を目指し、渡米し、そして美容室を経営するようになるまで(前編)」の続き、今回は(中編)になります。

   *(前編)はこちら ↓

今回の(中編)は、(前編)でLAに飛び立ったところからの続き、「LAに到着してから → その後ニューヨークに移り → HAIRMATESと出会い → その後NYで5年間暮らす」までです。


これまた長くなっています(笑)。

前編同様、どうか目次から、気になる部分だけ読んで頂けたら幸いです。


6.寂しさに押しつぶされそうだったLA最初の夜

日本を飛び立った僕は、韓国の経由便でLAX (LAインターナショナルエアポート) へと降り立ちました。
時刻は日も暮れ出した夕方。10数時間のフライトを終えたばかりの僕はさすがにそこから探検してみる気力もなく、まずはその日の寝床を探すことにしました。

空港の到着ロビーを出たところには、近隣のホテルやモーテルの案内看板がズラッと並んでいます。
出発前に日本で先輩から安いと聞いた ”モーテル6” と ”モーテル8” の看板を見付け、”モーテル6”に連絡。

「連絡」といっても既にそこはアメリカ。当然英語です。初めての一人旅、初めての海外、の僕にとっては最初の小さな試練でした。

もちろんビビりますが、そこは自分で選んだ道。”地球の歩き方” 片手に、とりあえず「Hi, uh... I don't have a resevation...」から始めてみます。すると 『O.K. How many people . . .  ?』と会話が始まるではありませんか!?

その後、決してスムーズではありませんがなんとかやり取りを終えて無事予約完了。

初めてのアメリカ人との会話でドキドキだった僕としては、「やった!できた!思ったより分かったし、思ったよりちゃんと伝わった!」と、興奮し嬉しかったことを今でも覚えています。

異国の地で不安な中一人でいると、こんな小さな成功体験でもとても自信と活力を与えてくれます。

そして予約を終えた僕はその足でタクシー乗り場に向かい、5分ほどでタクシーはモーテルに到着。

無事フロントで受付をすませ、ホッと一息ついたころには外はもう真っ暗です。

あてがわれた部屋に入り、ドキドキな中、無事にアメリカ初日の夜を向かえられたことにホッとしました。
しかしそれと同時に、当然なんですがそれを共有できる友達が誰もいないことにふと気付かされます。。。

そうだ、と思い、何か「人」を感じたくてテレビをつけても、英語なので意味は全く分からず、、、。

お腹が空いたな、、、と食べ物を探しに近くのデリに行き、そこでサンドイッチを買い、部屋に戻り1人食べる。。。


すると一気に、本当に波のように寂しさが押し寄せてきました。

「どうしてこんなところまで来てしまったんだろう、、、」

「もう後戻りできない、、、」

「ひとりぼっちじゃないか、、、」

たった一人で来てしまった、、明日から行くところも決まっていない、、言葉が通じない、、

当たり前のように分かりきっていたことが、それが現実になった途端急に寂しさや不安となって襲ってきました。。


その夜、友達たちとの思い出の写真や貰った手紙を見ながら、寂しさと後悔とで一人涙。。。

勢いよく飛び出してきてみたものはいいものの、とにかく寂しさと不安で押しつぶされそうだったLA初日の夜でした。。


▼Mulholland Drive からの眺め

画像1



7.語学学校と Cal State Fullerton

LA初日の夜は寂しさで押し潰されそうになりましたが、その後も安いモーテルを探しながら場所を転々とすることでLAにも少しづつ慣れ、その翌週からは語学学校が始まりました。

小さな語学学校でしたが日本人も数人いて、他にもタイの中学生やトルコ人の実業家など、いろんな人と同じ教室でする勉強は、とても新鮮で楽しい経験でした。

画像2


LAに着いてからはしばらく安いモーテルを渡り歩きながら暮らしていた僕ですが、この学校に通いだしてからすぐ、学校に紹介して貰ったアメリカ人夫婦の家でホームステイをすることにしました。
そのほうが宿代として考えると安かったからです。

このアメリカ人夫婦は23〜4歳で、当時20歳の僕とそれほど変わらず、遊び方も近かったのでとても気が合いました。
彼等が買ったばかりの家を一緒にリノベーションしたり、夜はハリウッドのクラブまで遊びに行ったり、彼らの親戚・友人らと食事に行ったり、、、と、ホームステイは当たり外れがあるといわれるなか、僕にとっては大当たりなホストファミリーでした。

そしてこの家から語学学校までのちょうど真ん中に「Cal State Fullerton 」というカリフォルニア州立大学があり、LAでもスケボーを買った僕は毎日家から語学学校まで、この大学のキャンパスをスケボーで横切りながら通学していました。

その大学は僕にとっていかにも ”アメリカ” な空気感があり、雑誌や映画で見たことがあるような風景ばかり。

僕はその空気感が大好きで、毎日のように学校帰りにその大学に寄ってはキャンパスを覗いていました。

そんな毎日を続けていたある日、僕はそこに通うアメリカ人大学生達と友達になりたくて、勇気を出して声をかけてみることに。

それっぽいファッションをした2人組みの学生を見つけ、スケボー片手に

「Hi..,
Where.. can I see... skateboarders....?」

とたどたどしいカタコトで話しかけ、それに加え、僕がつい最近日本から来たこと、LAには英語を勉強しにきたこと、スケートスポットを探す為にスケーターを探していること、などをカタコト英語と身振り手振りで伝えてみました。

すると彼らはそんな僕に少し驚きつつも、お互いの顔を見合わせた後に、、、「O.K.! come on!」
と、僕を何やらどこかに連れていってくれることにw

彼らに連れられキャンパス内を少し歩くと、その先には10人ぐらいの男女がワイワイと集まっていました。
その時僕の眼に映った彼らはまさに、高校生の時に見て一瞬で憧れに変わった映画 "KIDS" に出てくる男女そのもの。 

そして僕を連れてきてくれた2人組みはその彼らに、

「なんかこいつ、日本から来たばっかりみたいなんだけど、今スケーターを探しているんだって」
みたいな事を告げ、それを聞いた彼らも最初は不思議そうな感じで僕の事を見ていました。

でも僕がスケボーを持っていたこと、そして "Lyricist Lounge (当時伝説的だったNYのHIPHOPイベント)”とプリントされたTシャツを着ていることに気付くと、

「Hey! What's Up!」

と笑顔で声をかけてくれました。

映画で見たような世界に自分がいることでの興奮と、さらにその時の僕の英語力の無さから、みんなたくさん話しかけてくれたけど何を言っていたのかはほとんど覚えていませんw

でも「日本から来たのかー!?」や「HIPHOP好きなのか!?」など、会話の内容や盛り上がれる事は、日本の時とそんなに変わらなかった気がします。

そしてひとしきり話をした後、学校の体育館で一緒にバスケをし、好きな音楽の話をし、それから時間が経ち日が暮れると、彼らのうち数人が家まで車で送ってくれることになりました。
LAは車社会。学生も通学するのに車です。

声をかけて出会ってから数時間。英語ができなくてちゃんとした会話はできなかったけれど、言葉が上手く通じなくても遊んだり楽しんだりすることは十分一緒にできました。
そんな彼らは別れ際、”さようなら” 代わりの仲間内だけの秘密の ”hand shake" を僕に教えてくれました。
会ったばかりの僕を友達として迎え入れてくれたようでとても嬉しかったです。

「英語が全然出来ない日本人がいきなり一人でスケボー持って訪ねてきた」

きっとそんな風に彼らは僕を面白がって、興味を持ってくれたのでしょう。


▼映画「KIDS」

画像3


その日以降、僕は毎日のように語学学校帰りに大学へ寄り、彼らのたまり場に顔を出しては一緒に遊びました。

HIPHOP好きな彼らはどこでもターンテーブルを並べてDJバトルをしたり、ダンスをしたり、輪になってフリースタイルをしたり、、、と、本当にHIPHOPで遊び、楽しんでいるようでした。

そしてそんな彼らも、その中で僕がスケボーしているのをとても喜んでくれました。

「スケボーって凄いな〜」「カルチャーって世界共通だな〜」とその時身をもって体験する事ができたのと同時に、アメリカ人の友達とこんな風にたくさん遊べたことは、僕にとってとても貴重ですばらしい経験でした。

相変わらず英語力はロクなものでは無かったけれどw


当時の僕はというと「英語が話せない」ということを、何も負い目やハンデというふうに感じていませんでした。

「アメリカ来たばっかだし、これから英語勉強するところだし、分からなくて当然じゃね?」wという開き直りです。

それなのに「英語でアメリカ人とコミュニケーションをとる」ということ自体にはとても楽しさを感じていたので、Cal State Fullertonの友達もそうですし、それ以外にも普段から道行く人やバスの運転手さん、乗客、お店の店員さんなど、よく自分から声をかけていました。

声をかける内容は「道順」「バスの行き先」「これは何?」などの質問で、しかも自分が既に知っていることをわざと聞いていました。

理由は2つ。
1つは単純に、それをきっかけにアメリカ人とコミュニケーションをとりたいから。
もう1つは、知っていることをワザと聞くことで、その質問の発音や文法が相手に伝わるかの確認と、その答えとなる英語をよりよく理解できるから、でした。

質問していることは既に知っている事なので、答えそのものにはそこまで集中して聞く必要がありません。
それよりも「あぁ、これはこうやって言うんだな、、、」や、「よし、俺の言ったことが伝わったな」や、「こんな感情表現の言葉や挨拶の仕方があるんだな、、」という風に、答えの内容以外の表現方法や発音、実際のネイティブの言い方、などをより注意して聞いていました。

この「知っていることをワザと聞く」というコミュニケーション方法は、今でもこれから初めて渡米しようとしている人にはオススメです。
会話のきっかけとしてのハードルが低いと思うし、相手が答えを知らない場合や、英語を上手く聞き取れなくてもこっちとしてはOKだからですw


見慣れない外国人の若者から1人で、しかも不自由そうな言葉でたどたどしく話しかけられたら大抵の人が立ち止まってくれます。

日本で同じように外国人に話しかけられても同じだと思います。

そしてそうやって立ち止まってくれた人の中には「どこまで行くんだ?」と聞いてくれ目的地まで一緒に行ってくれたり、代わりに誰かに電話をしてくれたり、中にはバスを待っている間、退屈しのぎにとダンスを踊ってくれるお巡りさんもいました。

実際には困っている訳ではないのでちょっと申し訳ないですが、異国の地で人種や言葉の壁を超えて人の優しさに触れられた事は、僕にとってとてもとても大きな経験、財産となりました。


▼Venice beachで

画像4

画像5

画像6


▼ダウンタウンLAで。 Chad Muska と Harold Hunter と

画像7



8.LAを離れる決意をし、NYへ

その後も語学学校に行き、ホストファミリー・大学の友達と遊び、街にも出掛け、、、という毎日を過ごしすっかりLA生活にも慣れ、「アメリカ」ということ以外には以前とそれ程変わらないような日々を送っていました。

が、、、

僕が求めていた事はそういった「安定した日々」ではなく、何か「今しかできない経験」です。

もちろんアメリカなので日本では考えられないような事が起こるし、アメリカで生活しているという事だけでも十分異体験かもしれません。

でも、、

何かこのままではいつもと変わらない日常が続き、そのまま時間だけが過ぎさっていってしまうのでは、、、という少しの危機感が生まれ始めていました。

そしてそう思わせる理由の一つに、LAが「車社会」であることも大きく関係していました。

LAという街は面積にするとかなり大きく、”LA” といっても関東圏ぐらいの大きさがあります。
その関東圏ぐらいの大きさの中にいろんなスポットが点在しており、そのどれもが「車で1〜2時間」みたいな距離であることがざらでした。

日本で車の免許を持っていなかった僕は当然アメリカでも運転が出来ず、その代わりに電車やバスを使って目的地まで行こうとしますが、そうすると時間がその倍以上かかります。。。

そうなると出掛けられるのは学校が休みの週末のみ。行きたいところはたくさんあるのに1週間で1~2箇所しか回れない。。

その状態が「時間だけが過ぎてゆく、、、」という不安をよりいっそう掻き立てました。

そしてその不安は徐々に「LAを離れる」という思いに繋がることに。。


LAを離れるといってもまだ日本に帰る気にはなれません。
次はどこに行こうか、、、といろいろ思案しました。

LAと同じ不便を感じない場所となると、街自体がギュッとしていて電車やバスで行きたいところにピンポイントで行ける、僕が住んでいた神戸や大阪のような街。行きたいところにいつでも自分で行ける街、、。

そう考えるとすぐに ”NEW YORK” が頭に浮かびました。
NYなら地下鉄もあるし、行きたいところにいつでも行けるはずです。
そしてスケボーをしていた僕としてはNYといえば ”SUPREME”、また同じく大好きな ”HIPHOP” の生まれた場所であり本場です。
そう思うとどんどんワクワクしてきました。

そうなるとまたいつもの僕の性格です。LAに行くと決めた時同様「NYに行く!」に心はすぐ向かいました。

そう決めたらすぐその事をホストファミリーに告げ、語学学校にも告げ、Cal State Fullerton の友達たちにも告げました。

その時まだLAに来て3ヵ月、みんなとも知り合ってまだ3ヵ月です。
仲良くなったとはいえ、生活面や英語などで僕が一方的にお世話になっているような状態です。
にも関わらず、皆は僕を止めようとしてくれました。

「どうしてだ!?せっかく仲良くなったのに、、」
「これからもっと一緒に遊べたのに、、」
「NYは危ないところだぞ、、」

皆がそれぞれ、思い思いに止めてくれました。
英語が出来ない僕を温かく迎え入れてくれ、とてもやさしくしてくれた皆がそう言ってくれたことが、僕は凄くありがたくて嬉しかったです。。

しばらくは引き止めようとしてくれた皆も、僕の気持ちが固い事を知り最後は気持ちを尊重してくれました。(語学学校はどの道それ以上通うお金がありませんでしたがw)

そしてそれ以降は、代わる代わる盛大なお別れパーティーを開いてくれました。
アメリカでよくあるホームパーティーです。
みんなが家に集まって食事やお酒を持ち寄り、時にはターンテーブルを持ち込み、毎回夜中までワイワイ騒いでとても楽しいパーティーでした。。


~~~~~~~~~~~~

NYへ行くと決めてからすぐ、僕はどうやってそこまで行くかを考えました。

この時、既に所持金は5万円ほど。

出来るだけ安く行こうとグレイハウンド(バス)、アムトラック(電車) と色々調べるなか、偶然飛行機の片道格安チケットを見つけすぐにそれを買いました。確か7000円ぐらいだったと思います。とてもラッキーでした。

チケットを買い、行ける方法は確保できましたがNYに着いてからのことは何も考えていません。

「まあ何とかなるだろう、、」

相変わらずのいつもの楽観的な考えで、またしても僕は無計画にNYへ向けて旅立ったのでした、、、。



9.NY到着!の前に、、、(中編 part2に続く、、)

いよいよNYに!といきたいところですが、、

LAでの生活を綴った前半が随分長い文章になってしまいました。。
前編から続けて読んで頂いた方も、中編から読んで頂いた方も本当にありがとうございます。

中編は「LAでの3ヵ月~その後NYに移って5年間暮らす」までを書くつもりでいましたが、長くなりすぎてしまったので中編を2部構成にすることにしました。


次は「NYに着いてからHairmatesと出会い、その後の5年間」の(中編) part2 に続きます。。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?