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僕が美容師を目指し、渡米し、そして美容室を経営するようになるまで(前編)

こんにちは。東京・三軒茶屋でStoopという美容室&コーヒースタンドを経営しています、溝田 隆幸です。

2021年の2月に独立開業し、「Stoop」を始めました。
Stoopの主体はヘアサロンですが、入口にコーヒースタンドも併設しています。
20年近く美容師を続けた中で、美容師としても自分としても、この先もっともっと楽しく人生を続けていく為に出した一つの答えが ”独立開業” でした。

今では東京在住15年となりましたが、もともと私は兵庫県の神戸市で育ち → 18歳の時に大阪の美容専門学校へ → そして卒業後すぐに20歳でLA→NY、へと渡りました。

その時NYでHAIRMATESという美容室と出会い、そのまま5年間滞在。ニューヨークで美容師を経験後、帰国し、東京のHAIRMATES2店舗で勤務、その間トレーナー、マネージャーを歴任した後、今から8年前にHAIRMATESの三軒茶屋店をオープンさせ、運営していた経歴があります。

そんな「美容師」一筋の私が、美容師を目指し、渡米し、帰国、その後HAIRMATES三軒茶屋店をオープンし、独立開業。
そしてその後今に至るまでを、時系列を追ってこのnoteに綴っています。


美容師になって気づけばもう20年以上。。

Stoopをオープンし、これからも色々な事に挑戦したいと思っています。
それにあたりこれから何か関わったり初めて出会う人達に、何か私の自己紹介的な事が出来たらと思い、今までの経歴を少し文章にまとめることにしました。


短くまとめたつもりですが、20年分ですのでかなり長くなっています(笑)。

どの文章も目次を見て頂き、興味がありそうな部分だけでも読んで頂けたら幸いです。


*現在41歳の私ですが、「僕が美容師を~」の章は約10~20年前の話です。
なので一人称を「僕」としています。

1.美容師になる!と決めた高校2年生

大阪生まれの僕は、小さいころに神戸の端にある”舞子” という町に移り、小学校、中学校とずっとそこで育ちました。

そして高校に進学する際、特にまだやりたい事や目標などが無かった僕は、家から歩いて行けて、学力的にもまぁ落ちないだろう、、、という、まぁよくあるパターンから選んだ学校に通いだしました。

高校に入ってからは新しい友達も増え、その友達の影響から音楽、ファッションにとても興味を持つようになります。

今みたいにネットの無い時代、、、テレビでは紹介されないような音楽やファッションの情報を得る為、たくさん街へ出かけ、色々な人に出会い、そしてライブハウスや飲みに行ったりなど、夜遊びもその頃から頻繁にするようになりました。


▼よく行った神戸のライブハウスで。
狂ったようにダイブ&モッシュするのが大好きだった。

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部活一色だった中学時代と変わり、新しい場所、新しい友人、新しい世界を知って、刺激的でとても楽しい高校生活でした。

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そしてそんな高校生活も2年目に入って少しした頃、僕には初めての彼女ができました。

、、、彼女とのエピソードに大したものは無く、、、それどころか、初めての彼女で付き合い方もよく分からなかった僕は、たった数ヶ月であっさりとフラれてしまいます(笑)。

短い付き合いだったとはいえ、初めての彼女にフラれ、傷心の僕は、失恋した過去を吹っ切って新しい自分に生まれ変わる為に「もっといい男になるんだ!」という決意を持ってw、それまで通っていた近所の床屋さんから、当時神戸のお洒落な人達がたくさん行っていた「Fiber zoom」という美容室に初めて行くことにしました。

そもそも「美容室」に行くのもその時が初めてです。

そして出来上がった僕の髪型は、、、今まで通っていた床屋さんとはまるで違う、とても斬新でカッコいいヘアスタイルでした。

切られている最中はどんな髪型になるのか全く想像できなかったのに、スタイリングをして出来上がったその髪型は、まるでひとつひとつのカット全てに意味があり、それが繋ぎ合わさってこうなったんだ!と思えるような、自分にとっては細部まで完璧に作りこまれた最高なヘアスタイルでした。大げさですが、とっても驚愕して感動したのを覚えています。

そしてその感動はすぐに「どうやって切り進めていったら最終的にあんな髪型になるって分かるんだろう、、、」「使っている道具は床屋さんも美容師さんも同じなのに、なぜこんなにも仕上がりが違うんだろう、、、」という疑問に変わり、それはやがて「どうやったらあんな風に切れるのか、、、」「自分でもやってみたい、、、」「あんなことができるなんて凄い、、、」に変わり、そして程無くしてそれは「俺も美容師になりたい!」に変わりました。

単純な男子高校生にとって、”興味” ”新しい世界” ”憧れ” は、「俺もそれになりたい!」に直結するのに十分です。

昔から良くも悪くも一直線な性格だったので、一度決めたらその思いはぶれることなくまっしぐらでした。フラれた傷心を癒すため、きっと何か打ち込めるものも欲しかったのでしょうw


ちなみに美容師を目指すことを初めて両親に打ち明けた時、父親と母親の両方に反対されました。ですがそんな事はまったく気にしませんでした。親が反対するなら自分で学費を貯めて通おう、と思い、そこからはバイト漬けの日々です。夜遊びもほとんどしなくなりました。

そしてそんな僕の姿を見てか、しばらくはずっと反対していた両親も最終的には賛成して(あきらめて?)、美容学校に通う為の学費を出してくれることになったのです。(内心はホッとしました。。。嬉しかったです。やはり子供の力で美容学校2年間分の学費を貯めるのには、時間がかかりそうでしたから。。)


▼高校の同級生と。今でも大切な、かけがえの無い友達たち。

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2.美容学校と一人暮らし

大阪にある美容学校に通うことを決めた僕は、学費用にと貯めたお金で一人暮らしを始めることにしました。
家からも通えなくはない距離でしたが、なにより「一人暮らし=自由」です。どうしても一人暮らしがしたかったのです。
親を説得し、めでたく一人暮らしが始まったわけですが、一人暮らしという翼を授かった僕は、自由を謳歌してそれはそれはもう遊びまくりましたw

人生で一番遊び回っていた時期は間違い無くこの美容学生だった2年間でしょう、、。でもこの時期遊び回った経験は、その後登場する困難を乗り越える為の一つの糧となりました。あの時たくさん遊んで良かったと、心から思っています。

しかし肝心の美容学校ですが、、、実は中学、高校とも、なんとなく「学校」というものに馴染めなかった僕は、ここでもなんとなく居心地を悪く感じてしまいます。。学校にはちゃんと行っていましたが、あまり身が入らず、成績も悪く、、、。打ち込むという事からは程遠い毎日でした。

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しかしその分、一人暮らしと共に始めたスケトボードにどっぷりはまり、文字通り毎日毎晩スケートボードに明け暮れました。

スケーター友達もたくさん増え、夜中遅くまでスケボーをし、翌日学校では居眠り、、夕方からバイトに行って、夜はまたスケボー、という毎日です。

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スケボーをすることで知る世界、出会った仲間、は本当に刺激的で、今でもあの時スケボーをしていたから今の自分がある、と間違い無く断言できます。

平日は毎日学校に行ってバイトに行って夜中までスケボー、土日は朝から晩までスケボー、夜はアメ村でライブかクラブか飲み、、と大阪での生活はほぼ遊び一色でしたが、気の合う仲間達と過ごす時間は最高で、まさに青春そのものでした。

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でもそんな日々も長くは続きません。2年経つと美容学校も卒業です。卒業後の事も考えなくてはいけなくなりました。

相変わらず「美容師になる」という目標からは一切ぶれていませんでしたが、「就職」するということにはなぜかピンときていませんでした。。。

同級生が就職先を探す中、「美容師は、あまり続かず辞める人が多いんだって、、、」といったことをよく耳にするようになります。

「なりたくてなった美容師なのに、どうして辞める人が多いんだろう、、、」そう思い始めた僕は、その理由を探ってみることにしました。
そうすると出てきた声は、「自分の時間が無くなる、、、」「休みが少ない、、、」「時間的にも体力的にも遊べない、、、」といったことたち。

その時の僕は、まだ美容師になってもいないのに「美容師になったら絶対に美容師は辞めたくない」という思いがあり、小さな頭で考えた結果「それなら、辞めたくなってしまうかもしれない理由を今のうちに潰しておけばいいんだ!」という単純な考えに至りました。

それはすなわち、「自分の時間が無くなる。休みが少ない。時間が無くて遊べない」⇒「もう自分の時間なんていらない。もう休みなんていらない。って思えるぐらい、就職前に気が済むまでいろんな事をやっておけば、少なくてもそういう理由では辞めたいと思わないんじゃね!?」ということですw

ちなみに、就職したら毎日の時間が少なくなって遊べなくなる、、、ということについては、正直あまり心配していませんでした。
それまで「学校&バイト」の毎日だった僕にとっては、それが「仕事」だけになって、逆に時間も増えて体力的にも楽になると思っていたからです。
当時は20歳。40歳の今とは違い、1~2時間も寝れば疲れもアルコールも吹っ飛んでいた頃です。

なのでそれ以外に「就職したら出来ないことってなんだろう、、、」と考えると、やっぱり休み、それも長い休みは取りづらいだろうな、、、と。そして長い休みが取れないと、どこか旅に出ること、海外ならなおさら難しいんだろうな、、、と。


自分の中でそう結論付けると、そこから考えはどんどん飛躍し、膨らんでいきました。



3.初めての飛行機、初めての海外、初めてのアメリカ、初めての留学

美容学校卒業後の進路をあれこれ考えていた中、辞めない為の対策が重要だと考えていたのと同じぐらい、美容師になるにあたって「接客力」をつけることも重要だと感じていました。

高校2年生で初めて美容室に行って以来、それ以降も色々な美容室に行きましたが、人見知り気質な僕にとって担当美容師さんとの相性も様々。。。

「相性」とは「接客の相性」のことで、この「接客の相性」がよくないと、椅子に座っている時間がリラックスから緊張に変わってしまいます、、。

将来自分が美容師になった時には、できるだけこの「接客の相性」の幅を広く持っていたいと常々思っていました。

その為には「人間力」が必要かな、と。

そしてその「人間力」を付ける為には色々な経験をすることが重要、だと考えていました。

そんな風に考えていたのもあって、「就職したら海外を長い期間旅するなんてできないだろうな、、」と「人間力をつけたい」という思いが重なり、「そうだ、就職前に海外に行こう。そこで何かたくさんの経験をしてみよう」と思うようになりました。

そうやってあれこれ考えていると、高校生の時から興味を持ち出した音楽(グランジ、ヒップホップ)、ファッション(同じくグランジ!ヒップホップ!)、そして大好きなスケートボード、は全てアメリカから来ているものだと気付きます。

「そうだ。自分が今まで憧れてきたもの達の、本場の世界を見てみたい!」

さらに、
「アメリカは世界中から人が集まってくる国だ。それならばたくさんの国籍、人種の人達が住んでいるに違いない」と考え、そこから「それは一度でたくさんの世界を見られるということになるぞ!」という無茶苦茶な解釈も加え。

そして色々な経験をするなら、「旅行程度の短期滞在では足りないな」「人間力をつけるならコミュニケーションも取れないと。それには英語が必要だ」とどんどん考えは膨らみ、思いはあっという間に「就職前にアメリカに語学留学に行く!」に。

高校2年の時に美容師になることを決めた時と同様、そう決めたらもう後はまっしぐらです。気持ちはすぐに「どうやったら叶えられる!?」にシフトしました。

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そしてしばらくして無事美容学校を卒業した僕は、早速アメリカ留学に向けて動き出します。

でもそれまで海外旅行には一度も行ったことがありません。飛行機に乗ったこともありません。パスポートすら持っていません。

時代は携帯電話の液晶がやっと白黒からカラーになった頃。「インターネット」という言葉も出始めで、「これからの世の中はインターネットというものが凄くなるらしい」と言われていたような時代です。

毎日朝から夜まで、お金を貯める為に2つのバイトを掛け持ち、そしてその合間を縫って、本屋さんでアメリカ留学に関する本を買い、"留学センター"なるところでは資料を貰い、そして図書館に行ってビザ申請について調べる、、、。


そんな毎日を繰り返し、見たり聞いたりして調べ、最後にたどり着いた答えが「ロサンゼルスに英語留学」でした。

ロサンゼルスに決めたのは、「学費の安い学校を見つけたら、その学校があるのがたまたまロサンゼルスだった」というだけです。


次にVISAです。


どうせ行くなら、と僕は3ヵ月以上の長期滞在を考えていました。

アメリカに3ヶ月以上滞在する為には、何かしらのビザが必要です。

僕が見つけたこの安いLAの学校は、学生ビザの申請に必要なI-20を発行している学校でした。

学生ビザの取得の為には、まずは入学予定の学校からI-20を発行してもらい、そこに他の必要書類も合わせてアメリカ大使館に送付、申請します。
しかしI-20の発行から必要書類の確認、用意などは、全て英語で行わなければいけません。「これから英語を勉強しに行くってのに、このハードルの高さはなんや、、」とかなり苦労しました。

当時からそういった事を代行する業者もいくつかありましたが、なんせ資金に余裕がありません。
少しでも渡航前の出費を抑える為にと、できるだけ自分でやろうと決めていました。

それでも、学校から送られてくる英文のレターを1枚読むのに丸1日、、、こちらから送るレターを全て英語で書くのに1枚2~3日、、、と、決めたはいいが思ったよりも大変。。
Google翻訳も無かった当時、図書館にこもって辞書や参考書を片手に必死で読んだり書いたりしました。


しかしその結果、見事にVISAゲット!


そしてビザと同時に、この「苦労したけど全て自分で出来た!」という経験も手にし、そしてそれは僕に大きな自信を与えてくれました。
この経験から得た、「頑張って必死にやればなんとかなる!」という自信は、後のアメリカ滞在中に困難に直面した際、その困難を乗り越える為の大きな心の支えとなりました。

それまでの人生、きっとそこまで必死になって頑張った、ってことが無かったんですね、、、。「思いの強さって大事だな」と強く感じました。



4.何も決めずに、いざLAへ

そんなこんなで、美容学校卒業後からの半年間、バイト漬けの日々で貯めたお金を手に、いざLAへ。

この時僕は、ワンセメスター(3ヶ月)分だけの語学学校の手続きと、1年間のオープンチケット、それに大きめのボストンバッグ1つ、で日本を飛び出しました。


・学校をワンセメスター分だけにしたのは、単純にその分しかお金を貯められなかったから。

・オープンチケットにしたのは、語学学校終了後の3ヵ月後も日本に帰ってくるつもりは無かったから。

・ボストンバッグ1つだけで出発したのは、滞在先を決めなかったから。



初めての海外、初めての飛行機、、、不安も大きかったけど、それよりもワクワクと期待のほうが遥かに上回っていました。無知というのは時として大きな武器になります

学校は3か月分しか学費を払えなかったけど、その後は不法滞在でもなんでもいいからとにかく気が済むまでアメリカにいるつもりでした。

滞在先を決めていなかったのも、お金を節約する為に寝床なんてどこでもいい、なんなら別に無くてもいい、とも思っていたからです。

この旅の目的は「経験」です。安全で快適な旅をすることよりも、普通に暮らしていては出来ないような体験をする事のほうが大事でした。危ない環境でもいい、食べる物も別になんでもいい。自分の目や耳や手で、いろんなことに触れていろんな事を経験したい。それだけでした。

それが何ヶ月の滞在になっても、何年の滞在になっても。

そして滞在先を予め決めなかったもう一つの理由は、LAに着いたら思いのままに移動して、どこかフィーリングの合ったエリアで安いところに宿泊しよう、とも考えていたからです。
ネットがない時代だったので、「日本で紹介されている宿なんてきっと安全で高いところばかりだろう。現地に行けばもっと安い宿がたくさんあるはずだ」とも思っていました。

初海外、初アメリカ、にしてこの考えは、周りの友達や親を非常に心配させましたがw

それでも「なんとかなるだろう!」という考えには変わりありませんでした。


そして周囲の心配もどこ吹く風。そのまま何も決めずに、2000年の8月、僕はいよいよLAへと旅立ったのでした、、、。


▼空港まで見送りに来てくれた友達たちからのプレゼント。寂しくなった時は何度もこの手紙を読み返したなぁ。。。

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5.中編に続く

「僕が美容師を目指し、渡米し、そして美容室を経営するようになるまで(前編)」を読んで頂いてありがとうございました!

自分としても、昔のことを思い出したり昔の写真を引っ張り出してきて懐かしんだり、とても楽しみながら書けました。

もちろんこの他にもいろんな出来事がありましたが、「物語を交えた自己紹介」をすることを1番に考えて書いてみたつもりです。

いかがでしたでしょうか?

もし全て読んで頂いた方がいらっしゃいましたらそれは本当にありがとうございます!!


次は「LAでの3ヶ月間~NYでの5年間」を綴った中編に続きます。。。

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