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サンタさんにお願いしていた日

会社経営の傍ら、心理カウンセリング・コンサルタント講演・コンプライアンスに基づく講義なども行っています、りゅうこころです。ryukokoro

「赤ちゃんはコウノトリさんが運んでくるのよ」とか「いい子にしていればサンタさんがプレゼントをくれるの」とか、子供に見せる夢って素敵です。今回は『僕にはサンタさんが来てくれなかった』というお話です。


両親の自殺

あれはちょうど「初代ファミリーコンピューター」が世の中に出回り始めたころ。カセットも「ベースボール・テニス・麻雀」くらいしかなかった頃ですかね。友達の家で遊ばせてもらうファミコンが楽しくて、聞いてみると「サンタさんにお願いしたら枕元に置いてあったんだ!」との事。ご両親共働きで鍵っ子だった友達の家に行っては一緒にゲームで遊び、夕刊配達の時間には友人宅を出るという日々が続いていました。早くから両親の居なかった私はおもちゃ屋さんを営んでいる別の友人のお父さんにお小遣いをもらって、「世にいうサンタさんに、クリスマスの日に子供さんの枕元にファミコンを買って置いて貰える様にチラシを配る」をしていました。なのでサンタさん=お客さんだったのです。


子供ながらに歩合制

チラシ配りだけでなく、あの当時は今みたいにトイザらスのような大型のおもちゃ屋さんが無かったので、個人商店のおもちゃ屋さんが大繁盛でした。ファミコンのご注文を戴けるとクリスマスプレゼント用に包装をしてハサミでクルリンとリボンを作り、シールを張って準備をする。あの頃は女の子向けに「リカちゃんハウス」なんかも売れました。でも、ファミコンの方がメーカーからのキャッシュバックが大きかったので積極的にファミコンを推しました。(嫌な子供ですね)お客さんから見えない位置に黒板があって、売れた品物の下に「正の字」を書いていきます。

リカちゃんハウス  ―

ファミコン     T

みたいな感じですね。利益の高い品物は一概には言えませんが単価も高かったので、ファミコンを売るのは結構大変でした。でも20台売れば自分で帰るくらい儲かる事は計算できたので「どうやったらガンプラとかではなく高価なファミコンが買ってもらえるのか」というのを必死で考えましたね。


なかなか売れない

子供が宣伝したところで大人は耳を貸してくれませんし、決して安い買い物ではないので「はい、そうですか」とはなりません。子供ながらに考えて、(お店のテレビにファミコンを繋いで麻雀を大人の人にやって貰ったら売れるんじゃないか)と提案してみました。子供だから麻雀の仕組みなんてわかりませんし興味もありません。でも何となく(大人は麻雀が好き)という感覚はあったのです。いつもは夕方で閉めてしまうお店をサラリーマンが帰りに通る時間まで空けてもらい、『会社帰りにちょっと触って貰えたらラッキー』くらいの気持ちで始めました。


子供のマーケティング戦略が大当たり

これが驚くべき結果を生みました。会社帰りのお父さんたちがファミコンの前に並んでいるのです、順番待ちで一回ずつゲームをしている光景はすごく不思議な光景でした。これは後日談ですが、おもちゃ屋さんのおじさんに喫茶店でお昼ご飯にと「鉄板に卵のひいてあるイタリアンスパゲティー」をご馳走になった時、その喫茶店のテーブルが麻雀だったのです。子供だから喫茶店にはいることなどなく、知らなかったんですね。お父さんたちが必死で百円玉を積み上げて昼休み中に興じている麻雀が、おもちゃ屋さんの店頭で無料でできるとなれば、それは行列も出来る事でしょう。今の様に当たり前にLEDの街頭が整備されている様な時代ではなく、市電の駅を降りてアパートに帰る途中にある小さなおもちゃ屋さんに煌々と光るファミコンの麻雀、それに群がる会社帰りのお父さんたち。休みの日には昼間から行列ができるようになって、冷蔵庫で冷やしてもらっていた麦茶をサービスで出したりすると、大人達からお小遣いを貰えたりしました。店主のご厚意で「貰っておきなさい」ということで、両親が無くお小遣いなんて無かった私でも駄菓子屋さんでお菓子を買えるくらいの収入にはなりました。


面白い風景

見ている内に大人たちが麻雀について熱く語り合い、「いや、それ切る?」とか「あー、おしい!役満行けると思ったのに!」などと一種のコミュニティーが出来上がったのです。興味津々で見ていると、子供の僕に麻雀を教えてくれる大人が現れ始めました。「ぼうず、お前ならこの場面でどう考える?」『ジュンチャン三色を狙いに行きたいですね』「おいおい、それは欲張りすぎじゃねえか?」いつの間にかある程度役の名前まで理解できるようになっていました。時は初夏、この頃から

ファミコン 正正正正正正T

と、どんどん予約は入っていきました。平日の昼間にはお母さん達まで麻雀に興じる姿が見られるようになり、サンタさん達は子供の為というよりも「自分達が欲しいから」という理由で跳ぶ様に売れていきました。もちろんクリスマスまで我慢できない大人の人もいて、『今すぐほしい』という売り上げも倍増。これにより子供が黙っているはずもなく、『マリオブラザーズが欲しい』『テニスが欲しい』と、カセットもどんどん売れていきました。大きな百貨店などから在庫をまわしてもらって販売してもいつも予約販売中、ファミコンの入荷が間に合わなくなっていたのです。


ディスプレイマーケティング

僕は子供ながらに「物販」というものに興味が湧き、『売れないと言われるものを売る楽しみ』みたいなものを覚えました。需要からかけ離れているものでも、創意工夫で売れた時の楽しみをおもちゃ屋さんで覚えました。もうファミコンは黙っていても売れるし入荷待ち状態。それでもこれだけ人が居るのだから、埃をかぶっている売れない在庫を何とかして買ってもらう方法は無いかと考え始めました。古い飛行機のプラモデルとか戦艦ヤマトのプラモデル、埃だらけで店の奥の方に積んであり、箱の角っこが潰れているものもありました。僕は夕刊の配達を辞め、学校が終わるとおもちゃ屋さんに行って売れなくて困っているプラモデルを作りはじめました。綺麗に作って色を塗って飾る、ディスプレイ効果ですね。当時はそんな難しい事何も考えずに行っていました。麻雀を待っている人が興味を持って、あわよくば売れたらいいなーくらいの考えです。これが当たりました、平日は一人でコツコツ作っていたものが、土日となると麻雀の順番待ちのお父さんたちが「あーでもないこーでもない」と店の前に座り込んで一緒にプラモデルを作り出したのです。どうせ箱も潰れて売り物にならない品物です、お店からすればお客さんが集まってくれることが嬉しいようで、古い戦闘機のプラモデルなんかも引っ張り出して大人達と一緒に私が作る事を見守ってくれました。


ファミコンよりもプラモデルの方が売れ始めた

小さな町の小さなおもちゃ屋さんです。商品の入荷には時間が掛かり、大手の百貨店優先にファミコンは優先的に納品されるため、「百貨店で買ったからファミコン予約キャンセルで」というお客さんが増えてきてしまいました。これだけ爆発的に売れると次に始まるのは値段競争です。小さなお店が大手の価格競争に太刀打ちできるわけもなく、ファミコンは売れなくなってしまいました。この頃には仕入注文を出してもファミコンは入ってこなくなっていたため、売ることも出来なかったのですが。でもプラモデルを作る大人の輪は途切れる事もなく、毎週土日にはお店の前に輪が出来て「ぼうす、この戦闘機はよ、人間魚雷っていうのを積んでな・・・」などと話してくれながら大人たちは興じていました。その内今でいう「ジオラマ」が出来始めます。背景を作り針金で戦闘機が攻撃している様にディスプレイし、動きのないプラモデルがまるで動いているかのような作品が次々と造られていきました。もちろんこのレベルを作られる方はちゃんとご購入されて作ってはお店に持ってきて自慢されるのです。戦闘機・戦艦・ジェット機・車などありとあらゆるお店にとっては売れなくて処分に困っていたプラモデルが跳ぶ様に売れていき、いつしか在庫で通りにくかった店内はガラガラになってしまいました。


時代の流れ

そんなおもちゃ屋さんもご主人がガンを患て入院されるのと同時に閉店してしまいました。思えばガンプラのジオラマはその後の世代で流行ったのだと思います。僕にとっての色々な意味で楽しい場所が無くなってしまった悲しい瞬間でした。今ではそのおもちゃ屋さんは大手コーヒーチェーンに変わり、当時の面影は全くありません。私はといえばその後成長して大学に入学金免除・学費免除で入ったはいいものの、「卒業認定にお金がかかる」と聞き、バカバカしくなって中退しました。その後の就職先はもちろん歩合率の高い営業職です。固定電話・業務用コピー・戸建て住宅・携帯電話からフライドチキンまで様々な営業を経験し、ありがたい事にどの分野でも「優秀」と言われてきました。私にとってのサンタさんからのプレゼントは『将来役に立つ営業力』だったのです。現在は会社を二社経営し、コンサルティングやカウンセリングなどもやっておりますが、私のサンタさんである『おもちゃ屋さんのご主人』の事を思い出さない日はありません。

営業職で苦労されている方、「売れない」のではなく、「売ろうと思えば売れる」のです。緊急事態宣言、コロナウィルスで出歩く事が出来なくても、アイデア次第では情熱で物は売れます。貴方の成功をお祈りします!

りゅうこころでした。ryukokoro


重度のうつ病を経験し、立ち直った今発信できることがあります。サポートして戴けましたら子供達の育成に使わせていただきます。どうぞよろしくお願い致します。