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昭和を生きた父のこと

2020年4月20日(月)父が亡くなった。
早朝5時過ぎに電話の震える音で目が覚めた。父が最近転院した病院の名前が表示されている。普通は(かかってきた時間的にも)そこでピンとくるはずだが、なぜだかぼけっとしていた。

病院にも色々とあって、2月に父が入院したのは、救急医療を提供する総合病院で、そこを退院した父は、必要とされる医療的ケアができないという理由で、以前入居していた高齢者介護施設へ戻ることができなかった。病院のソーシャルワーカーさんが色々と助言をしてくれて、医療的な処置が充実した介護施設か「療養病院」(介護病床と医療病床がある)へ移るのがいいと教えてくれ、希望するエリアにある施設をリストアップしてくれ、いくつか面談したあとその病院に決めた。

父は、もともと非社交的な人で(いや、本当はどうかわからないが、少なくとも自分にはそう思えた。入居していた介護施設で「森さんの笑顔に癒されてます」なんて言われても疑心暗鬼だった)、こういう言い方もあれだが、何を楽しみに毎日暮らしているのか、自分には正直わからなかった。だから、特に親しい友人がいるわけでもなく、一緒に暮らしていた子供のころにも自宅に父の友人が訪ねてきたような思い出はない。そして、父は孤児だった。小さい頃に母親を亡くし、厳しい父親に育てられたと聞いた。父の父(僕の祖父だ)は若い頃は船乗りで、その後は刑務所の看守をしていたと聞いている。それも本当かどうかはわからないが、仏壇に飾られていた祖父の遺影は何かの制服をまとい、サーベルを持って座っているから、その手の仕事だったのだろう。その父の父も、父がまだ子供の頃に亡くなったらしい。
一人っ子で兄弟もなく、その後は叔母の家に預けられたと聞いているが、これも定かではない。要は、僕は若い頃の父のことをほぼ知らないのだ。

カーシェアを予約して(コロナ禍で、車の予約は空いている)、1時間以内に家を出た。歩いて10分ほどの駐車場にある車のハンドルやドアなどを除菌タオルで拭き取り、ETCをセットして走り始めた。環八の用賀から東名へ。道は当然のように空いていて、横浜ICから国道16号を北へ。信号に何度も引っかかり、結局病院に着いたのは朝の8時ごろだった。

電話がかかってきて「どれくらいで来られそうですか?」と聞かれた時に「そんなに容態が悪いんですか?」なんていう、寝ぼけたことを尋ねてしまったのだが、その時の看護師さんの返事が結構軽かったので、あまり緊張せずに病院へ入った。担当の先生と会い、すぐに病室へ案内された。

父は、若い頃トラックの運転手だった。いわゆるトラックだけではなく、トレーラー(荷台を連結するタイプ)も運転していた。長距離便の担当で数日おきに家に帰ってくるような感じだったと思う。子供の頃に、トレーラータイプのタンクローリーの大きなミニカーを買ってもらい、バックの方法(ハンドルを一度反対側に切る)などを教えてもらった覚えがある。日本郵船の荷物を担当していたらしく、父が持ってくるNYKのステッカーを茶箪笥の側面に貼りまくっていた(画像検索してみたが、残念ながら似たようなものは出てこなかった)。

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(写真)トラック運転手時代の父(左端)

僕が子供の頃は、川崎市高津区の北見方というところのアパート住まいだった。2階の自宅(多分六畳と四畳半くらいの二間)の窓から、外を眺めていた覚えがある。

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(写真)石井荘というアパートの部屋。画面は月面着陸のテレビ中継。

その後、ブリヂストン液化ガス(現・ENEOSグローブ)という会社の独身寮の管理人として一軒家に引っ越した。母が、寮生さんたちのための食事を作り、掃除などもしていたのだろう。寮の敷地は広く、2階建アパート二棟と管理人用の一軒家で、そこそこ庭があった。空気で膨らますタイプの丸いプールを出して水浴びしたり、三輪車で走り回ったりしていた。

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(写真)北見方の独身寮管理人棟前で(左から伯父、兄、母、父、筆者)。僕には姉もいるが、この頃は自由が丘の不二家で寮住まいで働いていた。

この家での父の思い出はひどい。原因はなんだか知らないが、怒り狂った父が、包丁でステレオセット(家具調のもの)のスピーカーを切りつけ、母に包丁を向けていた情景が真っ先に思い浮かぶ。父はとても気性が荒く、何かのきっかけで怒りのスイッチが入ると止まらないのだった。

平時の父には、花札のおいちょかぶや猪鹿蝶(六百間というらしい)を習い、ついでにイカサマの方法まで教わったが、マスターはできなかった(幼稚園児だったからそんなもの覚えても使い道はなかったのだが)。うちは両親とも南九州の出身で、花札も九州ルールだったのだろう。東京の人と花札をやった時にはルールが合わず困ったのを覚えている(今調べてみたら、そもそもゲームの種類も違ったようだが)。

父の怒りの話といえば、もう一つよく覚えているのは、同じ川崎の久地という場所で二つ目の独身寮(こちらはアパート一棟の小さな寮で、自宅もそのアパートの一室だった)の管理人をやっていたころ、気のいい寮生さん(僕にはよくお菓子をくれた)と母がいい仲なのではないかと疑った父が荒ぶって「出ていけ!」と母を追い出したことだ。母に連れられてどこかの資材置き場に座って過ごし、お腹が減った夕暮れどきに、街道沿いのカウンターだけの店でハンバーガーを食べさせてもらった(余計なことだが、そういう情景とフォークソングはよく合う。70年代だったし)。暗くなり行くあてもなく家に戻りそっとドアを引いたら鍵が開けてあった。その時にもきっと父は荒ぶれていたのだと思うが、幸い記憶がない。実際に母とその寮生さんがどうだったのか知る由もないが、いずれにしても、父にはそんなナイーブなところもあったのだなと思う。また、当時嬉しかったのは、一緒に住んでいた(と言っても社員用の部屋の一つを借りていた)高校生の兄(母の子で父の子ではない)が、荒ぶる父の胸ぐらをつかんで対抗してくれた時だ。とても頼もしかった。

この2軒目の寮に移る時に父は、ブリヂストン液化ガスの部長さんから、僕が小学校に上がるのに合わせて、転職しないかとの誘いを受けた。ちょうど綾瀬(神奈川県)に研修所を作るので、そこの送迎バスを運転して欲しいということだった。父がその研修所でバスの運転以外に何をしていたかは不明だが、多分総務的な仕事の補助でもしていたのではないだろうか。社食メニューの超厚切りトーストにバターをたっぷり染み込ませたものをよく持って帰ってきてくれた。一度、休日の会社へ連れて行ってもらって、コピー機で遊ばせてもらった記憶がある。この研修所は、その後分社して相模セミナーハウスという研修専門の施設になった。そのうちに送迎バスの仕事もなくなり、普通に事務員として定年まで働いた。

うちは、よく引っ越しをする家だった。ブリヂストン液化ガスの寮が廃止になり、ただのアパートになったあともそのまま住んでいたのだが、(多分)小児喘息持ちだった僕の健康にも良いだろうという理由で厚木に家を買い、3度目の引っ越しをした。その家は、国道129号線のバイパス(工事中だった)沿いの建売住宅で、2階建だった。健康を考えたのなら、もっと環境の良いところがあったのではないかなどとも思うが、まぁその辺が父らしいところだ。引越しから半年か1年後にバイパスが開通すると、道路は深く掘った谷の下を通っていたが、車の騒音がうるさいと母がノイローゼ気味になり、結局、家を買い直して愛川町というところへ引っ越した(愛川町でさらにまた家を買った)。厚木の家には1年半しか住まなかったのであっという間だったが、このころの父との思い出は、海老名のダイクマで自転車を買ってもらったり、同じく買ってもらったリコーオートハーフを持って週末には環八沿いにある中古車ショップへ車の写真を撮りに行ったり(スーパーカーブームだった)と、「家族」らしい思い出が多い。

そういえば、元がトラックの運転手だったからというのもあるかもしれないが、父は車が好きだった。この厚木の家にいた頃は、フォードマスタングや、VWビートルなどを乗り継いでいた。その前にはマーキュリークーガーにも乗っていたのだが、アメ車は子供心に楽しかったし、ビートルは音がうるさかったが愛着があった。

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(写真上)フォードマスタング。エンジンはコブラジェットだった。
(写真下)VWビートル。これ以外に60年代のものにも乗っていた。

(クーガーの写真は残っていなかったが、ギミック満載で面白い車だった)

車を巡るエピソードで面白かったのは、ある日、父が会社から帰ってきた時に「車を買い替えてきた」なんて、スーパーで食材でも買ってきたみたいに言う時だった(1度ではない)。特に笑ったのは、米軍座間キャンプのアメリカ人向けだとかいう中古車屋(といっても、田んぼの真ん中に車が放置されているようなところ)で、五千円で手に入れたというトヨタチェイサーだ。窓を開けようとすると、ギロチンの如く窓が一気に下に落ちるような代物だった(僕は「元チェイサー」と呼んでいた)。そのように物々交換的に車を替えていくうちに、いつの間にか自宅の車は軽自動車になっていた。

家にしても車にしても、計画性がなく、まったくもって行き当たりばったりだった。そして、今振り返ると、それってものすごく昭和だったなと感じる。

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(写真)父母と3人で鹿児島の実家へ全て陸路で帰ったことがある。車は手前のカリーナ(社用車だった)。これが一番行き当たりばったりだった。写真は道中立ち寄った宍道湖端の食堂。

病室へ入り、寝たままの父に対面した。随分静かに眠っているのだな、落ち着いたのかな、それにしても顔色悪いな。なんて思っていたら、医師が神妙に脈を取り、まぶたを開けて光を当てた。勘の悪い自分もそこで、ああ、父は亡くなったのかと気づいた。間抜けだ。看護師さんによると、電話をもらったあと1時間ほど、午前6時半には息を引き取っていたとのことだった。眠るように安らかだったということだ。若い頃は、短気な性分をうまくコントロールできない荒ぶる人だったが、そうやって静かに眠ることができてせめて良かったと思った。

転院前、ソーシャルワーカーとの打合せのために病院を訪れ、その時に少しだけ父と時間を過ごした。2月の入院時よりもずっと具合が良くなっていて、少しだが会話もできた。その時父に療養病院への転院を伝えたのだが、返事は「インチキじゃないだろうな!」だった。語気強くそう言ったのだった。父の生きた昭和は、ヤブ医者も多くて、そういう思いが去来したのだろう。なんともいえないが、全然立派じゃなくて「父らしいな」と思った。

それが僕が聞いた父の最後の言葉だった。

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