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窓を開く〜忘れられた問いを求めて

人工知能 AI やゲノム編集など技術革新の飛躍的な発展によって、社会や人間のあり方が根 本的に変わることが予想され、社会に戸惑いや不安が広がり始めている。これからどのような変化が起きるのか、人間の未来はどのようなものになるのか。
数々の技術革新が人間の抱える様々な問題を解決に導いてきたことは事実だ。しかし、人間はいつの間にか技術やシステムに適応(あるいは隷属)する生き方、つまり技術やシステムによって体系化された全体の中で生きる生き方を選んでしまったのではないか?
そんな思いに捕らわれながら、部屋の片隅に 積まれた本の山をぼんやりと眺めていたら、ある背表紙の文字に目がとまった。「全体性と無限」 だいぶ以前に読んだレヴィナスの著書だ。
第二次大戦でナチスドイツの捕虜となったユダヤ人哲学者が戦後に著したこの哲学書は、彼の代表作といわれている。埃を払いながらペー ジをめくり、線を引いたり付箋を付けたりした箇所に目を通していると次第に釘付けになり、いつの間にか再読をはじめていた。結局、年末年始の休み中、この難解な哲学書と一緒に過ごすことになってしまった。
ナチスの全体主義を体験し、哲学の師でもあ ったハイデガーのナチスへの加担を目にすることになったレヴィナスは、ヨーロッパの思想哲 学を支配していた全体性、つまり、全体という概念が生み出す暴力、全てのものを取り込み包 括する全体という概念への批判を展開した。そして、全体性が包み込むことができない無限について深く思考し続けた彼は、語りをとおした他者との対面に、無限への扉を見出そうとした。
彼の哲学は、これらの問いを何処までも深く掘り下げることに捧げられた。私は、レヴィナスの問いに対する真摯な姿勢や切実さ、忍耐強さ、人間に向けた愛の深さ、平和への思いに感銘を受けた。彼が残した著作は問いを置き去りにして方法に走り続ける現代社会にあって、益々その重さを増していると思う。
アサザプロジェクトは1995年の発足時から中心の無いネットワークを理念に活動を展開してきた。中心が無い自然のネットワークと重 なる人的社会的ネットワークを実現させ、ネットワーク全体が生み出す効果(全体的な効果) を引き出そうとしてた。
しかし、私がここで言う「全体」とは、以前の巻頭言(あさざだより57号)で述べたような「全体というよく分からないものへのオマージュ」に過ぎない。全体とは私達が理解できるものでも、実体としてあるものではない。全体へのオマージュは、無限に続く問いの連鎖の中でしか健全に生き続けることができない。
現代の最先端の医学は、人体を中心の無いネ ットワークとして捉え、様々な臓器間のコミュニケーションと相互作用によって、まさに、そ の全体的な効果として私達が生きていることに 気付き始めている。人体を支える中心の無いネットワークは、刺激や感覚、対話や交流をとお してその外部にまで広がっている。それらのどこまでも広がっていく複雑なネットワーク(社会も含めた)の全体的な効果として、私達ひとりひとりは今ここに「かけがえのない私」として生成され続けている。しかし、その全体を私 達は理解することも見ることもできない。在る のは、全体という分からないものへのオマージュだけだ。
人間は全体へのオマージュを国家や様々な組織として具象化し、全体的な効果を生み出す機械やシステムに変えようとしてきた。人間はそれらフィクションとしての全体を基に共同体を 形成し、全体を維持する規則や規律、法律など の体系を構築してきた。そのように全体を具象 化し実体化しようとする動きは、近年の技術革 新によって益々精密化効率化し、日々加速している。冒頭に述べた AIやゲノム編集といった技術も、ビッグデータやゲノム解読といった「全体を実体化する技術」をベースに、人間や社会の在り方を変えようとしている。
このまま人間も自然も、実体化された全体(フィクション)に 吞み込まれていくのだろうか。問いを置き去り にして方法に走る人類は、構築され絶対化され た全体の中に、つまり限りなく透明に近い全体 主義へと突き進んでいくのではないかと不安に なる。将来、AI によって全体を対象化し(何よりも人を)自由にデザインできる画期的な技術が生み出されるか もしれない。透明な全体という暴力に晒されな がら、AI と一体化した一握りの人々(人間をや めた人々)と、AI に管理され無気力に生きる大 多数の人々(人間をやめさせられた人々)の姿が脳裏に浮かんで来る。
人間が創り上げた全体というフィクションは、確かに大きな効果を生み出してきた。しかし、それらの全体には外部があることを忘れてはならない。実体化された全体の外部にあるのは問いに満ちた無限の世界。人間も社会も、本当はその無限の問いに包まれていま在る。そして、無限を包み込むことができるような全体など無い。
私達が言う「全体」が全てを包括するものではなく、無限という外部をもつ閉じられたもの(フィクションとしての全体)に過ぎないことに気付かなければ、持続可能な社会や循環型社会も、自然との共存や人間らしい生き方とは程遠いものにしかならないのではないか。環境問題への取り組みもまた、この根源的な問いを置き去りにして方法に走ってはならないからだ。
方法やシステムなどの普及に頼っているばかりでは、環境問題は解決出来ない。
問いは人に謙虚さを与える。しかし、問いを 忘れた人間(フィクションの全体の中に安住した人間)は、傲慢さを隠さない、全体を維持す るためには排除を恐れない、平気で嘘を言える、 冷酷で厚顔無恥になれる。残念ながらそのよう な指導者が次々と現れ、フィクションとしての全体を実体化し理想化しようとする動きが、昨今世界を覆いつつある。世界は息苦しさを増しつつある。
全体性とは、全てを包括し同化(所有)しようとする人間的な、あまりに人間的な欲望の表 れかもしれない。しかし、無限は全体に包括さ れること無く、全体性という欲望を挫折させる。それは、問いの中にある。だからこそ、私達は 教育をはじめ全ての分野で、問いに応える深い 学びを取り戻さなければならないのだ。
全体性と無限。息苦しさを感じたら、ためらわず窓を開けよう。そして、空に向かって深呼 吸をしてみよう。そうすれば私達一人一人の中 に眠っていた無限の問い「人間とは何か」という問いも目覚めるに違いない。私達が置き去りにしてきた問いに立ち返ることで、人間が本当 に豊かに生きることができる未来は開けて来るのではないか。  
アサザプロジェクトは、これからもたくさんの人々と問いを共有し合い、良き出会いの連鎖が生まれる場として在り続けていきたい。そして、無限に続く問いの連鎖(開かれた窓)として在り続けたい。
                        2019年1月7日
                              飯島  博


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