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アートは、自己の内面を表現することなどではない

先日、アート思考について議論することがあったんですが、そこでアートが、主体が内面を表現するもの、デザインが客観的な問題を解決するもの、というような区分が出てきたのですが、これはいささかナイーブな考え方です。

アートが「主体性」というものに疑問を投げかけて、ずいぶん時間がたちます。現代芸術においては、主体なぞなくしていく方向に進んできました。その根底には、確固たる「私」なんて存在しないという、深い内省がありました。

これまでの記事でも触れてきましたが、私たちの見るもの、聞くもの、考えること、すべてこれまでの制度に囚われています。社会的につくられた言語を使って考える以上、これは仕方のないことだというのが、20世紀の構成主義の考え方でした。アートもこうした考え方に反応し、作品から「作者の感情」は取り除かれていきました。

たとえば山口真人さんの「現代アートチャンネル」で取り上げられているジャスパー・ジョーンズの回などは、非常にわかりやすいです。

だから今、アート思考というときに、「自分を表現する」という文脈で語られてしまうことに、非常に違和感を感じてしまいます。その自分は何者なのか、という、芸術家が直面する問題意識抜きにでてくる「自分」は、退屈なだけです。

およそアート的でない「自己表現」がアート思考と呼ばれるのであれば、そこでいう「アート」とはなんだろうか。アート思考の議論が浮遊しているように見えるのは、この根底がずれているからなのではないかとも思います。

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