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【ネタバレなし】エヴァンゲリオンは無意識との対話だった

ネタバレのやり取りが多くなってきたので、今日の午前中、最初の上映を見に行ってきました。TOHOシネマズ渋谷でしたが、9割近く埋まっていた感じでしたね。

最初のテレビ放送時はリアルタイムに追いかけていましたが、その後の映画はあまり深追いしておらず、今回は最後なので、と思って足を運んだという、まあいい加減な観客の一人です。

その前提で読んでいただけるとありがたいです。

14歳の無意識に向かい合うドラマ

昨年の夏にとってきたザリガニが冬を越し、卵まで産んで繁殖しているんですが、このザリガニにとってたいへんな作業が「脱皮」です。結構な頻度で失敗してしまうのと、脱皮後の柔らかい状態が一番、仲間に食われやすいのとで、このタイミングで亡くなってしまう事が多いのです。

エヴァの重要な数字は14歳。このとき、精神的な「脱皮」を果たすわけですが、ザリガニに負けず劣らず、それはそれはたいへんなリスクです。他者との関係の作り方において、また社会との関係の作り方において、体を位置から作り直す、いわゆる生物の「変態」と呼ばれるプロセスになぞらえたほうが良いくらい。

今回あらためてエヴァを見て、「無意識の表現」としてのアニメーションを見ているのだと思いました。だから、事細かに理解したり、辻褄を合わせたり、伏線回収の答え合わせをしたりという作業は、意味をなさないのではないか。

ファイナルでありながら、今回の映画でも謎は残されたままなのではないかと。(全部、しっかり見ていたいのでわからない……。)

キャラクターへの感情移入しづらさ

上の前提で考えると、キャラクター理解というところも、ちょっとだけ特殊な味方をする必要がありそう。キャラクターが個性を持って生き生きと物語を生きる、というようなことではなく、他者や社会との向き合い方についての各バリエーションがキャラクターにあてがわれていて、もっといえばやや記号的な存在として登場し、主人公の碇シンジの「ありかた」を浮かび上がらせている「地」として機能している。

記号には感情移入しづらい。いや、その記号を理解できれば、その記号に対応する自分の中の感情を再確認して「泣ける」ことはあるのかもしれない。だから「感情移入しづらい」と書くと反論もあると思う。あくまで主観的な意見だけれども、なんというか、僕は感情が一連の物語の中で描かれているというよりも、毎回毎回、そのシーンの「一枚絵」のように描かれているように思える。

それが悪いということではなく、そういう「一枚絵」を楽しむ、もっといえば、キャラクター群の配置から生まれる「構図」を楽しむような感覚で、エヴァを見ていました。

エヴァは「面白い」のかーメタフィクションとしてのエヴァ

エヴァの表現はゲーム感覚だと思う。テレビ放送のころにマリオの3Dが出たり、すこしまえにバーチャファイターが出たり、そしてその後、続編の映画が出ている間に、モンハンやゼルダBoWが出たりといった、世界のバーチャル化、いわば世界からセカイへと、認識が転換していった時代だったように思う。

エヴァの表現もどんどん、抽象化していき、アニメ的な文法ではなく、むしろモンハンのようなゲーム文法で理解すべき表現がどんどん増えていったように思う。

こうした傾向に無批判にどっぷりハマっていったのがエヴァである、と言いたいところだけれども、そこで重要となってくるのが、TV版の最後のイラストだった。あれは、アニメのフィクション性を際立たせるメタフィクションとしての機能を果たしていた。その後の映画でも、実写を取り込むことによってアニメのフィクション性を強調する場面もあった。

そうしたメタフィクションとして作品を楽しむこと、つまり、アニメそのものだけでなく、アニメをつくるひとたちの意識や、それを見ている人の意識、エヴァを取り囲む社会状況など、すべてを取り込んだ作品として見ることのできる人が、この映画を真に楽しめるのではないだろうか。

ということで、すみません、あまり楽しめませんでした。

追伸

多くの人が書いているように、納得の終わり方だったと思います。

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