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【ネタバレあり】シン・エヴァンゲリオンの楽しみ方

ネタバレありの記事なのでご注意ください。見ていない方は、ぜひ映画を見てから感想を共有しましょう!

ネタバレなしのものはこちら。

ということで、『シン・エヴァンゲリオン』ですが、まずはつまらない解説を書いていく。

シン・エヴァ解説

14歳の悩みというは、自己中心的な世界から世界中心的な自己への転換だ。医者になったトウジは他人のために働き、それが彼の存在意義になっている。それの転換の契機となるのが労働だった。

綾波(のそっくりさん)の人間性回復の物語が、今回の映画の柱である。人との関係を取り結ぶ(呪術的な)言葉を覚え、労働の身体性を通じて感情を取り戻し、名前を与えられることによって、固有な自分を取り戻す。自分で名付けるのではなく、名付けられる。この受動性が、世界と自己との関係の根底にあり、その受動性をあらためて主体的に捉え直すことが、大人になるということだ。

映画の最後には、登場人物全員(碇ゲンドウを含む)についてこうした人間性回復の物語が語られていく。人類補完計画による自己完結する人間ではなく、他者に補完されながら成立する人間の物語として完結する。

映画の最後、絵コンテ表現(テレビ)や実写(映画)、スタジオや教室などでの戦いなどを通じて、その物語の虚構性が強調される。ここでのメッセージは、神話のこうした虚構性を理解した上で、「どうせ虚構だろ」とひねくれる(シンジ)のでもなく、「虚構なんだからゲームのように楽めばいいじゃん」と開き直る(アスカ)でもない、虚構を虚構を引き受けつつ、それをメタな視点で捉え直すことによって得られる自由を獲得すること、だった。

電車と線路、駅は、こうした虚構性のもうひとつのメタファーであり、ふたり手を取り合って駅から走っていくときの自由に、観客は「ようやく決着した」と思うわけだ。この決着がついた感は、この映画の一番の見所であり、効果であったように思う。

作者の個人的ストーリーとして

という、まあ一通りのことを押さえた上で、こういう読みはこの映画の楽しみ方としては、実は本質的ではなく(「小さいころの自分に会ったり、田舎に行ったり、庵野版『おもひでぽろぽろ』だな」的な感想をつぶやく程度である)、庵野監督の個人的な物語を重ね合わせるのが、まずは長らくこの物語を追ってきた人の作法である。

TV版で14歳のころの自分の葛藤を表現しようとして破綻して、それが『まごころを君に』でさらに壮大に破綻、最後にほぼみんな死んじゃう(ここで僕は離脱)。その後、色々あった末に(僕はエヴァを熱心に追っていなかったので詳しく知らない)、最後にこうしたエンディングを描けるまでになった、という作者の状況変化に感動するわけだ。

なぜすっきりするのか(個人的感想)

しかし、作者の熱量としてはすごく低いというか、冷静な印象を受けた。あの映画の中で変な熱量を感じたのは、田植えの場面くらいで、あとはサービスサービス的な場面の連続だったのではないか。それは、「子ども」が熱中したときの熱量には遠く及ばず、「おとな」の手による、抑制の効いた感じを受けた。『まごころを君に』の、実写部分の「やっちまった!」という恥ずかしさを感じることもなく。

そういう、エネルギーが収束する感じがいよいよ、「この映画によって決着した」感となって伝わってくるのだと思う。

なので、見終わったあとの感想は「お疲れさまでした」という、労働のあとに交わす挨拶のような言葉だった。

そう、シン・エヴァは、「まっとうな大人」による労働の結果生まれた、仕事としての映画だったのだ。

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