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昔話や御伽噺、神話は道徳のためにある?

   勘違いがあった、という話をしたい。ああ、わかりにくい?つまり昔話や御伽噺(おとぎばなし)、神話などというものは、道徳のために存在していないという話をしたいわけだ。

    子どもの頃に嫌という程、絵本で読み聞かされた「桃太郎」「一寸法師」「鶴の恩返し」「竜宮城伝説」「因幡の白うさぎ」等、それらの話の目的は道徳心の育成では無いからだ。つまり、子どものためのものではまるで無く、昔にあった出来事を後世に伝えるために用いられたストーリーだからであり(昔は口伝が主流である)、それらは真実をそのまま表しているとはとても言い難いが、それでもあらゆる隠語を用いてカムフラージュして過去を表現した結果であると考えた方があらゆる辻褄が合うと考える。つまりは、そういう事なのだ。

   噺家が、面白おかしく過去の人たちの生活を表す中で、新作としてリニューアルを受けるように、噺は進化する。それはその時生きている時代の人たちに分かりやすくする以上に、面白いと思ってもらうことが重要だったからだろう。でなければ、口伝などという曖昧で不確定なやり方で後世に伝わるはずないのだ(つまり、面白く無ければ廃る)。

   ぼくはやたらとそれらが道徳心を煽っていることに嫌気があった。はいはい、家族や友達と仲良く暮らせですよねー。とか。そんなふうに斜に構えていたように思う。それらは道徳心を教える教材として確固たる存在感を発していてあまりにも内容がシンプルすぎる上に、時代感がまるで違うにも関わらず、ある意味で価値観の押しつけを教育の現場でさせていたからである。

    わたしはこの手の価値観の押し付け、がすごく嫌いだ。忌み嫌っていると言っていい。感じ方は受けての自由であって、話し手は操作してはいけないと思っている。それなのに、これらのストーリーには原因と結果しかない。つまりそこでどうすれば良かったのか?とか、何が間違っているのか?などという聞き手の想像の余地は存在しない。全ては過去に起こったことであり、揺るぎない事実(空想も入ってるかもしれないけどね)として、ただ、単に、伝えているに過ぎないからだ。それらは昔の時代の、歴史書の代わりでもあったことを思えば仕方ないのだろう。問題はそれが歴史書の表現方法の一つでしかないにも関わらず、それを受け入れる以外の選択肢を用意せず、それを覚えさせるような教育にこそあると思っている。

    なぜ鬼は悪者として退治されないといけないのか。という視点が抜けていたり、なぜ、亀なのか、なぜ兎なのか。挙げだしたらキリがない。それらは、何かを隠す隠語であり、分かりやすくデフォルメされたものなのでいかしかたないのでこれ以上は追求しないが。これは日本に限らない。世界に散らばる神話においても同様だろう。それらが指し示すキャラクターにはそれほど意味などなく、それらが起き、結果どうなったか?だけが重視される。これはあくまで想像だが、それらの話はもしかすると帝王学のひとつとして皇帝や天皇家などで語り継がれできたもので、それがどこかのタイミングで庶民にも親しまれる結果になったのかもしれない(またはそう仕向けたのかも)。いずれにせよ、訳が分からないようになっているのは隠語まみれの暗号文であるからで、それ以上でもそれ以下でもないのだとすると、そこから道徳心を得よという方のほうか間違っているとすら思う。土台無理な話なのだ。

   つまり、読み聞かされ、後の世に伝わることが目的であってその内容、または真意については「わかるやつだけわかればいい」というものなのではないか?という考察である。  だとするととても話は分かりやすくなってくる。

   これらが何を意味するのか?については他の専門のYouTuber達に任せるとして、過去の歴史書としての創作話なのであれば、そこから読み解くべきは、ここの隠語は何を意味したかったのか?という深読みの方にこそ存在する。

   それらが伝えられた時代に何が起き、何を伝えたかったのか。それは過去の歴史書である。過去の人たちが、後の世を生きる僕たちへのダイイングメッセージとも言えよう。彼らは何を伝えたかったのか。その点こそ、僕らが忘れている、日本人らしさというアイデンティティなのではないかと思う。日本人らしさというと主語がデカすぎてそれだけで1本のnoteが余裕で書けるくらいの内容なのでここについては次回以降にしたい。少なくとも、日本人とは何か?という点と、世界における希少種としての日本人という点は考え直しておくべきと思っている。

   隣人を敬い、神を敬い、自然を敬う。そのうえで、自らの人としての生を肯定して日々に感謝し、大地に祈りを捧げる。太陽と共に起き、月とともに眠るそんな暮らしのあり方をそのまま体現したような行き方をして来たはずである。豊かな自然に育まれ、山に行けば動物が生き、海へ行けば魚たちが群れをなす。川に行けば水があり、森からは無限の資源を得られる暮らし。それらは何不自由のない人間的な暮らしそのものだったはずだ。それこそ、稲作を必要としないくらいには。

   そこから生まれる八百万の神への畏怖。そして慈しむ心。そして、海の外からもたらされる知識や文化、そして争い。それらのことの起こりと顛末を話にして後世に伝える。出来事を通じて昔の人たちはどう判断して行動したのか?という箇所にこそ物語の伝えるべき内容が凝縮されている。つまりその選択をできる人であること。それこそが、私たち日本人が、日本人たる所以なのかもしれない。

   過去に日本には渡来人が居た。もちろん居るだろう。過去に日本は西と東に分断された。鬼界カルデラ大噴火の話を持ち出さなくても、日本は火山の島だ、十分にありうる話だ。そうやって、自然に翻弄され、ある時は淘汰されつつも、賢く、根強く、生き延び、そして今日まで生きてきた僕たち日本人。この日本人というアイデンティティが揺らいでいる令和において、僕らは何かを失い、自信も失った。そしてもはや絶滅危惧種である。絶滅を待つばかりの日本人として、今できることは少ない。だが、ここで思い出して欲しいのは、日本人は何も失ってなどいないという事実だ。その証拠にいまも昔話は理解出来る。今に伝わっている。その心、その判断は今もこの胸に備わっている。日本人は忘れているだけだ。日本人は何も無いと思い込んでいるだけだ。ぼくらはもう一度、思い出せばいい。かつて、私たちの祖先がそうして祈りを捧げたように。

  ややスピリチュアルな話に聞こえてしまっただろうか。そうだとしたら申し訳ない。私はただ、頭の中を飛び交っている言葉の星屑を拾っているだけだ。そうしないと頭の中が煩(うるさ)くて適わないからだ。言葉と思いを置きに来る場所、ぼくの心の休憩所にきたぼくを許してください。お陰様ですっきりしました。

むじかでした。

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