短編時代小説『剣豪・奥山休賀斎公重』

 奥山休賀斎公重は、本姓を「奥平」という。三河国作手(現在の愛知県新城市)を本拠とする作手奥平家(奥平宗家)の分家、稲木奥平家の出で、諱は定国とも、信秀とも伝わる。

 ──奥平定国は麒麟児であった。

 若くしてその剣の腕は三河には右に出る者が無く、若き徳川家康も岡崎城に呼んで、稽古をつけてもらったという。

 奥平定国の人生のターニングポイントは三度あった。

 第一のターニングポイントは「剣聖」と呼ばれた上泉信綱との出会いである。上泉信綱は、新陰流の創始者である。奥平定国は上泉信綱に新陰流を学ぶと、奥山明神に百日間篭り、杉山地蔵を破って究極奥義「夢想の太刀」を得て「奥山流」を開眼し、「奥山休賀斎」と名乗り、奥平一族や家臣の子弟たちに剣術を指南した。

 第二のターニングポイントは、姉川の戦いの後に訪れた。この戦いは、奥平貞能の嫡男・貞昌(当時十六歳)の初陣であった。敵を討ち取った奥平貞昌が、その首を主君・徳川家康に見せると、

「小腕を以て首級を得し事、其の功、大なり」

と言ったという。初陣では、別の者が首をとって渡すことが多々あったので、徳川家康は、「その細腕で敵を倒せるわけがない。ただでさえ、初めて人を殺すのであるから、怖気づくことが多い」と心の中では思いながらも、「あっぱれである」と称賛したのであろう。それに気づいた奥平貞昌は、カチンときて、若気の至りで、徳川家康に言い返した。

「戦の道は、筋骨の勁(つよ)きに依らず、唯、其の術にこそ依り候」

剣法は、腕の細い、太いではなく、術(テクニック)であると言い返したのである。これには徳川家康も面食らい、

「汝(なんじ)、剣法を学びたりや」

と聞くと、奥平貞昌は、

「奥山流を学びたり」

と答えた。すると徳川家康は、

「余も若かりし時、その流を学ぶといえども、事繁きが故に怠れり。凱旋の後、必ず彼に面会したまわん」

と言い、実際、奥山休賀斎を呼び寄せ、八年の長きにわたって師事したという。この「徳川家康の剣術指南役となったこと」が奥山休賀斎の人生の第二のターニングポイントであり、奥山休賀斎の名を広めるとともに、新陰流の名も広まり、後に柳生新陰流が将軍の剣法となるのである。なお、この時、奥山休賀斎は、諱を公重に名を変えている。

 さて、豊臣秀吉は、小田原征伐に向かう途中、三河の地で奥平貞能に会って「長篠の戦い」などの話を聞くと、彼を頼もしく思い、欲しくなって家臣とした。この時、奥山休賀斎は、主君・奥平貞能とともに上洛したようである。さて、この小田原征伐後、一人の北条家家臣が豊臣家家臣となっている。その名を小笠原長治(高天神小笠原家)という。奥山休賀斎の人生の第三のターニングポイントは、この小笠原長治との出会いである。小笠原長治は、新陰流二世・奥山休賀斎に師事し、新陰流三世となった。江戸に道場を開き、門弟は3000人いたという。

 さて、さて、奥平貞能の子・貞昌は、長篠城主となり、「長篠の戦い」では城を死守し、織田信長から「信」の一字を頂いて「信昌」と名乗り、徳川家康の長女・亀姫を娶った。そして、彼の子孫は中津藩主となった。このため、奥山休賀斎の墓碑は中津の自性寺にもあるのであるが、代々の墓は臼子にある。臼子の奥山道場での話(井伊家家老・木俣氏との出会いなど)は、またいずれ、話す機会があるであろう。

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