翌日の夢。

「百足に毒があるってことは、百足を包丁で離乳食みたいにして、楽しく飲めば毒状態になるってこと?」
「そうだよとは言わないけど、なんとなくそんな気もするよ」
「なら私は旅に出ようって、そう思っておくよ」

 三日月の色をした、あの人の眼球は、それを見つけてしまった彼女の思考をけたたましく包む。それはいわゆる支配というやつで、どうしても逃れられないことを、血管の中に流れる血液のような日常の中で静かに悟った彼女は、もはや手遅れであることを諦めと称して受け入れた。

 どうして? と、世界は彼女を責めるような強い口調で詰め寄るが、しかしそんな激高も、激高ゆえの進撃も、それらを認知すらしていない彼女にはまったくの無毒だった。

 警察関係の建物の、清潔感と無機質さが同時に迫ってくるような取調室を連想させるその小さな部屋。真ん中にある灰色の机を、左右から囲む二人の女性はそれぞれ同じ型の椅子に座っていた。
「それは湯源のお月様。欠けることを望まぬ、あの日のお月様」霧のような声。
 落ち着いた様子で冷たい鉄椅子に腰を下ろす女は、その部屋の静寂の中にしっとりと溶け込むような声で発し、それから目の前の灰色の机に両肘を置くと、すっ、と向かいに座っている軍服を着こんだ女性の眼底を覗く。「貴女は、どうなの?」口元を歪ませて笑みを見せるが、しかし瞳に、それはなかった。
 露草の色が、軍服の女性の黒色に映る。その美しさというのは一級の宝石のようで、そのことには、重苦しい無表情を顔中に張らせている軍服の女性も気づいてはいたが、しかし軍服の女性は、そのことを顔や声には出さなかった。
 女性の顔は、無であった。
「……私には信仰の趣味はない」軍服の女性はただ言った。それは、一切の乱れの無い水面に投じられた小石のようで、それまで余裕な遊び人のような態度をしていた女の額に、しっとりと汗を流させた。
「残念だわ……」女は気を紛らわせるように言うが、それでも自身の心臓の、活発的な生き物かの如く、非常にけたたましく動いている様を静めることはできなかった。蒸し苦しい汗が、服の下の小さな肩幅からだらりと垂れて、全身を、ぼう、と熱くする。くらりとしてしまうほどの、頭痛のようなものが脳を襲う。
「余裕がなくなってきらしいな」軍服の女性はきりっとした目で女を視る。それは獲物を絶対的な窮地へと追い詰めた狩人かのようなものではあったが、その眼球と血相に、確実な勝利を前にした際の、油断とも称せる余裕を得た色は全く無く、ただ、獲物である女の、次なる一手を見極めていた。
 すると女はゆっくりと言った。
「そういえば昨日、冷蔵庫にあったものを食べたんだ」
 その一言は、軍服の女性に懐の短刀を出させるのには、十分だった。
 そして次の瞬間、その小さな部屋に、女の首から流れる、女の醜い人生にひどく反した鮮やかな血液が舞った。肉の感触を手ではなく全身で感じている女性の脳裏には、あの日の駅の思い出が、山の中で流れている川のように蘇っていた。
「ああ、私はきっと、こうつうじこにあいました」
 右手の刃物は女性の白い指らをするりと抜け、つるりとした床の硬い素材に甲高い音を立てて落ちた。赤に彩られた女の肉塊をどろりとした目で見る女の脳では、すでにあの日の出来事が再生されていた。

 辺りに誰も居ないような、ただ緑が、見える限りの世界に広がっている地に、空気の読めない母親のような感じで存在している駅には、周りの緑の大地と同じように無人だった。小さな駅には屋根が無く、駅というよりは線路の近くにある灰色の石の台の上に、ただ黄色い腰掛けが、数人ほどが腰を下ろせるほどの椅子があるだけ。その枯れている石板というのも、褪せた灰の色であるだけで、時折吹く、弱弱しい風に乗って来る落ち葉が、ひどく目立っていた。
 孤独という概念そのものを表しているかのような駅に、なんと今日は、二人の人が居た。その男女は駅の石板を踏んで駅に侵入すると、そのまま無言で黄色の腰掛けに体を預けた。
 女のほうは無表情で、駅を取り囲む緑をただ見ていた。それの隣に居る、五十枚にも及ぶ数の診察券を手に持った男のほうは、女の横顔を見ていたが、そんな僕の顔や、ふるふると震えている両ひざには、なんとかしてでも女と会話をしたいが、しかし気の利いた、女がこちらを向いてくれるような話題が無いという悲しい事実を噛みしめている、という現状が見えていた。
 上空を舞う鴉が、かあと鳴いた。
 男である僕は、彼女のことが好きだった。他人とは違う観点で物を視、他人とは違う感覚を誇りとして堂々と掲げているその様がたまらなく好きで、勉学が物の見事に手につかなくなってしまうほどに夢中になれた。
「……貧乏でも良いから、明るい家庭が良いな」意を決して放ったその声は、まるで冬の寒さに身を蝕まれているかのような、震えた声になってしまった。
 しかしそんな情けない声に、彼女は体を一切動かさずに反応を返してくれた。
「貧乏な家庭に明るさはねぇよ」
「そっか」僕の人生最大の落胆は、その声の高さすらも失わせた。しかし次の瞬間、まさに僕の頭上の鴉が、かあかあと鳴いた瞬間、その落胆は油が洗剤で落とされるように消えていった。
「……なあ、ここで人身事故が起こったとしたら、それに対処するのが仕事な人は来るのか?」
「さあね。それより……私は、きっと大統領になれない」
 隣に座る彼女はそういうと、手元にある大豆ほどの大きさを持った、甘い味のする白色の菓子を、目の前の線路に向けて投げ捨てた。ぱらぱらという音とともに無数の菓子は線路の銀色に散っていくが、彼女はそんな様を完全に無視し、さっさと自身の服から携帯電話を取り出して、それの画面に食い入るように目を向けた。
 僕はそんな女を見て、手に持っている五十枚にも及ぶ診察券を全てひざの上に置いた。途端に診察券のひんやりとした感触が、ひざにじんわりと伝わって気持ちが良かった。
「よし、覗き見したろっ!」
 僕は声を荒げて言うと、彼女がいじっている携帯電話に顔を寄せた。
 桃色の携帯電話の小さな画面には、黄色い褌を着込んだおじさんが、街を歩く女性に対して、物乞いかの如く握手を求めている動画が映し出されていた。
 僕はその動画にひどく戦慄した。
「え、なにこれ」
 僕は震える手を握りしめ、彼女を見る。彼女は画面の中のおじさんを見てほくそ笑んでいた。おじさんはどうしても握手がしたいのか、屋外であるにもかかわらず、なんの躊躇も無しに土下座をしていた。
 僕は再び戦慄した。彼女の笑みに。おじさんの屋外土下座に。
「うそだろ……」
 この意味のわからない動画も、意味のわからない動画を見てほくそ笑む女の神経も、僕にとっては何もかもが理解不能で、身の毛が粟立つほどに嫌悪を感じた。
 しかし、最も理解不能で嫌悪を感じたのは、動画のおじさんが僕の育て親、正確な身分でいえば、叔父に当たる人物であることだった。
「叔父さん、なんでそんなことしてるの」
 僕は思わず言ってしまった。すると彼女は勢いよく顔を上げ、僕の顔を、無邪気な子供のような目で見てくる。
「この人、君の叔父なのかいっ?!」無駄に生きの良い声で言う彼女。その声はここ最近で一番元気が良いものだった。
「いや、まぁ、そうだけど……」なんとも言えないくやしさというか、劣等のようなものを感じている僕は、しかし彼女に嫌われたくない一心で答えた。
「……変な人だね」なぜか小声だった。
「そうだけど……でも!」
 彼女の態度があまりにも意味不明だったから、僕は沸騰したお湯のような怒りに任せて勢いよく腰掛けから立ち上がった。ひざの上の診察券達が地面に落ちたが、そんなものには構わずに彼女の顔面を勢いよく指差した。
「でも君は、その変な人を見てほくそ笑んでいたじゃあないかっ!!」
 まるで決め台詞を言っているような雰囲気を出しながら、僕は大声で叫んだ。無人の駅に声の余韻が響く。
 彼女は笑っていた。鴉がそれに答えるように鳴く。かあ、と五月蠅かった。
「ほくそ笑むってえ? あぁ、あまりにも変な人だったからさ」
 彼女はやはり笑っていた。その笑みが、四肢がもげるほどに気持ち悪い。
「だからって、ほくそ笑むことないじゃあないか! 何を考えているんだ、君は!!」
「? 何をそんなに怒っているんだい。ほくそ笑むことがそんなにおかしいのか?」
 彼女は眉間にシワを寄せる。ようやく笑みが消えた。良かった。
「ああそうさ! おかしい!! 君はおかしいよ!!」
 僕がそう言うと、彼女は急に真顔になって、お気に入りの丸眼鏡のブリッジを人差し指でクイッと押した。
 丸眼鏡のレンズ越しに見える彼女の目。その眼光は力強く、鋭い。
「……君の叔父を笑ったのは謝罪するよ」
 彼女の声は、さっきまでの生暖かい声ではなく、とても冷たい声だった。「しかし、笑われるようなことをしている叔父側にも問題があるし、そもそも、私がほくそ笑んで良いかどうかを決める権利は、君には無いよ」
「う、うるさい! 非常識なんだよ!!」
「声量は常識の範囲内だと思うんだがな。急に立ち上がったり、君のほうが非常識だ」
 彼女は冷静だった。僕からすれば、その余裕ぶった態度も気持ち悪い。
 僕が彼女のことを睨んでいると、彼女は立ち上がり、地面に散乱している診察券達を素手で拾い集め始めた。
「ほら、さっきまで大事そうにしていた診察券が、落ちてしまっているぞ」
 彼女はそう言い、拾い集めた診察券の束を僕に差し出してくる。
 分厚くなった診察券の束。今はそれすらも醜い。
「いらねぇ!!」
 僕は彼女の持つ束をはたき落とした。診察券は再び地面に散乱した。
 彼女は呆れた顔で僕を見てくる。やめろ。
「全く……そんな態度で、よく今まで生きてこれたな」
 彼女は立ち上がり、どこかへ行こうとする。
「待てよ」
 僕はそんな彼女の腕を掴み、彼女を引き止めた。
「話はまだ終わってない」
「終わってるも何も、最初から話なんてしてないだろ」
 彼女は横へ向けた体と顔を戻すこと無く、目だけを僕に向けて言う。
 僕は彼女の腕を掴んでいる手に力を込めた。
「謝罪しろよ。君は僕の叔父を笑ったんだ」
「嫌だね。変人であることは事実だ」
「なんだと!!」
 僕はそう言いながら、彼女の腕から手を離し、代わりに彼女の胸ぐらを掴んだ。そして胸ぐらを掴んだ腕を引き寄せて、彼女自体を僕の方に引き寄せる。
「やめろ!」
 すると彼女は、そこでようやく抵抗してきた。手に持っていたスマートフォンをポケットに入れ、両手で僕のことを突き放す。
「うおっ」
 彼女から離された僕はそのままバランスを失い、後ろによろけていく。
「なっ……」
 バランス感覚が人より無い僕は、そのまま後ろの線路へと飛び出してしまった。
 線路の先に目をやると、この駅に向かって爆速で走る電車が見えた。
 僕は一瞬で戦慄した。しかし体はすでに中に浮き、もう駅には戻らない。もう、助からない。
 電車はあっという間にこちらにやってきた。
 電車を動かす運転士と目が合う。なぜかライダースジャケットを着ている運転士は、向日葵のような笑顔を浮かべていた。
 僕は、どんな顔をしていただろうか。
 そんな事態があった後、彼女はなにごともなかったように、それから数時間後に来た電車に乗り込んでいった。

 女性が気が付くと、そこは鉄の壁で囲まれた部屋だった。広さはさっきまで居た取調室のようなあの部屋といい勝負だったが、その無機質さというか、冷たさはこちらのほうが圧倒的で、冷房のようなものがあるわけでもないにもかかわらず、女性は不安になるほどの肌寒さを感じていた。
「なんなんだ、ここ」女性は口では戸惑いを言いながらも、しかし体はたくましく、一切の震えをすることなく立ち上がった。軍服の上着に温かさを感じつつ、取り敢えずこの部屋から出ようと、目の前の扉に向かう。
 扉はやはり鉄製で、近くで見るとその重々しさがより際立って伝わってくる。それでも女性は怖気ることもなく、また躊躇いも無しに扉の飾り気のない取っ手を掴み、氷のような冷たさを手の全体で感じながら手前に引いてみせた。すると扉は簡単に開いた。その重々しさに反して、まるで発泡スチロールで出来ているのではないかと思ってしまうような、それほどの軽さだった。
 しかし、
「え」
 開けてた出口を一歩進み、部屋から出た女性はそのまま立ち尽くした。そこに広がっていたのは自然だった。目に良いと直観でわかるような、みずみずしさを感じられる緑の草原が、見える範囲の全てに広がっていた。見渡しながら唖然とする女性は、それでも進まなくてはならないと思い、動きたくないと言ってくる足を無理やり動かした。
 前進していくと、そのうち目先に何か草原ではない物が見えてきた。それが何なのかはわからなかったが、しかし女性はそれが、砂漠の中にある湖であると信じ、進んだ。
「どうしてこれがここに……」
 十分以上の時間をかけて女性がたどり着いたのは、湖のような素晴らしい場所ではなかった。それは、あの日のあの出来事の舞台である石板と腰掛けしかない駅だった。
 女性は混乱と懐かしさを胸に感じながら、あの日座った黄色の腰掛けに目をやった。黄色はあの日と変わらずに黄色のままで、それが褪せているなんていうこともなかた。
 寂しそうな石の大きな板を軽々しく、特に何も思わずに女性は踏む。それは冬の寒さが一層のこと肌に染み込む、とある朝。たしかあの日の出来事が発生したのは、お昼ほどの時間帯だったって、と女性は思った。
 よく見てみると、線路は赤くなっていたが、所々に白色が見えた。なんだろうと目を凝らして見てみると、それは砕けた菓子らしく、赤色の上に散乱していた。
「なんでだろう」
 女性はもはや、なにもわからなかった。

 まばらに咲いている膝ほどの全長を持った蜘蛛の形の花の道を、搔き分けるようにして進む。毎日、君の使用済み絆創膏を食べたい、という内容の結婚の申し出をしてきた男は、今や頼れる旦那だった。
「六年前の、あの奇跡のような駅員の戯れは、一体何処へと到達したのだろう」
 天よりも上の、あの日の出来事だった。

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