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アメリカの空

 少し前の話になるが、元ロサンゼルス・ドジャース監督のラソーダ氏が亡くなった。ラソーダ監督の訃報を知り、当然のように僕は野茂のことを思い出した。野茂が日本の野球界を飛び出してメジャーに移籍したのは1995年で、僕は当時高校生だった。付け加えると野球に全く興味のない高校生だった。在学中、通っていた高校が甲子園に出たのだが応援に行かず海に行っていたくらいだ。
 だけど野茂の試合はドキドキしながら見ていた。当時物心の付いていた人なら誰もが野茂の鮮烈なメジャーへの挑戦を覚えていることだろう。あの空気はまだ信じられていたアメリカンドリームという幻想のようだった。球団がロサンゼルスという分かりやすい都市に拠点を構えていたこと、チームカラーが澄み渡る空を思わせるようなブルーだったことも、アメリカンドリームというイメージへの助けになっていたと思う。僕たちは野茂英雄という若き投手の背中からスタジアムの上を広がるアメリカの空を見ていた。
 まだ実質的にはインターネットのなかった当時、日本にいる日本人がアメリカの空気を感じることは日常的にはほとんどなかった。映画もドラマもニュースもあったが、それらは殆どが録画されたものだったし、臨場感のあるリアルタイムのアメリカなんてそうそうテレビにはなかった。アメリカはいつも、地理的にだけではなく、時間的にも遠い場所だった。
 衛星放送で中継されるメジャーのスタジアムは洗練されていてクリアだった。LAというキャップの刺繍、ブルーとホワイトを基調としたユニフォーム、躍動する選手たち、早口のアナウンス、湧き上がる観客、美しい芝。16歳の僕の中で、ハリウッド映画やTVシリーズや音楽だけではなく、あれらの中継がアメリカというイメージを形成する大きな要素になったと思う。アメリカという言葉が想起するある種の爽やかな興奮。

 野茂英雄という投手が自分の中にしっかり刻まれた存在であるということに気付いたのは10年以上後のことだ。僕はどこかで野茂が書いた本を見つけて読んだ。いつどこでどのように見つけたのかは全く覚えていない。偶然その本を見つけるまで僕は野茂が書いた本が存在するということすら知らなかった。
 野茂英雄には「僕のトルネード戦記」「ドジャーブルーの風」という著作がある。日本の野球界を飛び出してメジャーに挑戦した1年目と2年目について書いたものだ。本の中では、メジャーの素晴らしさが活き活きと語られているだけではなく、日本の野球界が如何に抑圧的で合理性を欠くかということ、またそれを取り巻くマスコミの批判が辛辣に行われている。野球界というのはやや曖昧な言葉ではあるが、批判されているのは主に運営サイドで選手ではない。野球を好きでもなんでもない運営サイドが、選手のことなど何も考えず、金儲けとメンツのようなものを原理とした力学で動いているということが具体的に書かれている(四半世紀前の話ではあるが)。野茂自身が最終的には日本の野球界を追放されるような形で渡米しており、もちろんマスコミは野茂を叩きまくったので、話には重みがあった。例えば、野茂はメジャーで選手が楽しそうに話ながら練習しているのを見て、日本だったら怒られると驚いている。メジャーでは選手一人一人がトレーニングを考えて実行し、コーチは相談やアドバイスはするが主体は選手であり、選手が嫌だと言う練習を無理に行わせるようなことはしない。対して日本ではコーチや監督が考えた一律なメニューを選手はやらされる。更にコーチが勉強して色々考えても、監督が「とりあえず走ったらいいんだ、俺はそれでやってきたんだ」みたいなことを言ったらそれで終わりだし、コーチは監督に気にいってもらおうと「一生懸命さ」つまり「スパルタさ」をアピールするため選手をしごいたりして選手が故障する。もう滅茶苦茶だ。この辺りの話は桑田も高校時代練習中に水を飲むことが禁じられていたので隠れて便器の水を飲んだみたいな話をしていたと思う。訳の分からない根性論が日本のスポーツ界にはまかり通っていた(今もそうだという話を時々目にする)。本格的なスポーツでなくても、思えば僕が小学生のときには体育関連のことを行うとき、水を飲むことが禁止されたいた。運動会の練習で倒れる生徒がいたことは当然のことだろう。

 ラソーダ監督が亡くなったことを受け、野茂の本を再読した。野茂英雄という投手が憧れ、実際に味わったメジャー。いやメジャーだけではない、野茂は自分にチャンスをくれたアメリカという国に感謝していると言っているが、彼が味わったのはメジャーではなくアメリカという国だった。
 ここに書かれていることは今となっては昔の話だなと、読みながら僕は思っていた。当時僕達はアメリカの暗く重たい面が見えていなかったのだ。ベトナム戦争は過去となり、ハリウッドとディズニーと「洋楽」が日本を覆っていた。差別も貧困も見えていなかった。僕達が見ていたのは上澄みだけだった。今となっては僕たちはアメリカの抱える多々の問題をほとんど常識として知っているが、当時はそうではなかったと思う。無知に立脚した憧れがそこにはあった。
 だが、同時に僕はあるブログ記事のことを思い出した。その記事はシアトルに移住した日本人エンジニアが書いたものだ。シアトルに引っ越した彼は、ある日「防音ボックス」をネットで購入する。防音ボックスは中に入って楽器の練習をしたり歌を歌ったりする為のものだ。一人で使うものなのでそれほど大きくはないだろうと思っていたら届いたのはなんとも巨大な木箱で、フォークリフトでもないと運べないような代物だった。木箱を動かすこともできず呆然と立ち尽くすエンジニアが最初に考えたのはもちろん返品だった。巨大で運べないしそもそも部屋に入るかどうかも分からないだけではなく、既にこの時点で彼はアメリカの洗礼みたいな配送トラブルに見舞われてくたびれていた。ようやく届いた自分では動かすこともできない巨大な荷物を前に、もう買い物自体が間違いだったのだと思うのは自然なことだ。
 でも、ここから「アメリカ」が始まる。キャンセルの電話をしたらサポートセンターの人が「別にキャンセルはいいけれど、運べないとかいう理由だったらこういう解決方法あるよ」と教えてくれる。アパートの入り口で巨大な木箱と共に立ち尽くす彼に通行人達が「何買ったの?へー、めちゃいいじゃん!キャンセルなんてもったいない。入るかどうか心配しないでとりあえずやってみたら?」と声を掛けて行く。誰も「床が抜けるんじゃないか」とか「大家には断ってあるのか」みたいなことを言わない。
 結果的に、力持ちを派遣するサービスみたいなものを使ったり、友達、同僚の助けを得て、彼は防音ボックスの設置に成功する。巨大で重いだけではなく、防音ボックスは組み立てが必要で、組み立て説明書は間違ったものだったが助っ人達は文句一つ言わずに考えて組み上げてくれた。完成した防音ボックスを使ってみて、それが人生最高の買い物だったという彼はここでアメリカの凄さに気付く。友人同僚近所の人、誰もがネガティブなことを言わず、励まし解決策を考えてくれた。著者は、日本にいたとき自分自身を自由奔放で冒険的な性格だと思っていたが、その辺のアメリカ人に比べたら全くそのようなことはなかった。
 一つの個人的な体験を取り出して、アメリカや日本という国の枠組みで話すのは乱暴に違いない。しかし、このような話を聞いたことは一度ではない。
 僕は別のある出来事のことも思い出した。
 その時、僕はクラウドファンディグに時折上がってくる疑似科学製品を批判していた。現代科学では作れない製品がそれらしい動画で紹介されていたり、永久機関みたいなものまでがお金を集めている状況がバカらしくて、僕はクラウドファンディングという手法すら嫌いになりそうだと言った。
 一通り僕の話を聞いてくれた人は、テクノロジーに明るく、長い間アメリカに住んでいた人だった。彼女は「だってクラウドファンディングって応援する気持ちでお金出しているわけだから」と言った。それだけで十分だった。僕は自分の中に大きく居座る批判的な考え方に絶望して恥ずかしくなった。「床が抜けるんじゃないの? 大家さんにちゃんと言ったの?」僕が言ったのはそういうことだ。
 複数個のエピソードから、ある国の性質を汲み取るのは乱暴で無意味だろう。僕はここでアメリカという固有名詞を使うべきではないのかもしれない。ただ、自分の中にある卑小な部分に気付いたという個人的な話に過ぎない。それでも、僕が自分勝手な誤解で描いたピクチャーだったとしても、やはりその卑小さはサンフランシスコの広い空の下ではじめて認識されるものだったと思う。「あの空の青さだけが喚起する私の生」というものが、きっと誰にでもあるのではないだろうか。僕にとっては16歳のときに衛星中継の向こうで見たアメリカの空がそうなのかもしれない。

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