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感知する力(改稿)illyさんver

その言語を知らずとも〝分かってしまう〟ということがある。

中国の成都に行った時のこと。四川省は武術で有名な都市だ。とあるきっかけで、四川省の武術チームの監督との会食に同席することになった。第一線で活躍する武術家たちと円卓を囲みながら四川料理を食べた。その中で印象に残ったのは、武術チームの監督の振る舞いだ。彼はとても穏やかで、なめらかな中国語を話した。皆は彼の美しく、時にユーモラスな語りに引き込まれ、身を乗り出して耳を傾けた。彼の言葉に感心し、度々笑いが起きた。そして、驚いたことに私もまた、皆と同じタイミングで笑っていた。中国語を全く知らないというのに。

これは一体どういうことだろう?

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私たちは、言葉を〝意味〟以外の領域で感知しているようだ。それはもっとプリミティブに。身体的な感覚として。

例えば、歌唱において。歌が巧い人というのは、出だしの3秒もあればその人がどれくらい歌唱力が高いのかがわかる。演劇でもそうだ。俳優が舞台に登場してから30秒もあれば、その俳優の演技力が大体わかる。魅力的なコメディアンは、登場した瞬間からおもしろい。

つまり、私たちは〝言葉〟という点ではなく、全体が醸す情報を鋭く感知して判断材料としているのだ。

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私たちは、目に見えるもの、耳に聴こえるもの、手に触れられるものが全てだと思っている節がある。でも、気圧は可視化できないし、超音波は耳に聴こえないし、細菌に触れることはできてもそこに実感を伴った感触はない。

1/fゆらぎ

川のせせらぎ、蝋燭の炎の揺れ、蛍の光の点滅、木漏れ日。それらの放つピンクノイズ(雑音)が見る者、聴く者、触れる者にリラックス効果を与えると言われている。

音楽でいえばモーツァルトの曲には1/fゆらぎがあるというのは有名な話。1/fゆらぎは聴覚では感知できない。意識の外側で身体が反応し、脳内がα波の状態になるのだという。

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以前読んだ、とある文章が心に残った。「自然の音を聴くと寿命が延びる」のだという。人間の聴覚は2万Hz以上の高さを超えると感知できない。実はその2万Hz以上の音波が人間の身体(精神)に良い影響を与えているらしい。つまり、「聴こえない音が健康には重要」なのだ。

実はCDは2万Hz以上の音をカットしている。全ての音幅を収容させるためにはずっと大きなディスクが必要になり、コストがかさむ。「人間が聴覚で感知できる範囲の音」だけを切り取ることによって、安価で供給することに成功した。

しかし、それは「CDを聴くことは〝本当の音楽〟を聴いていることにはならない」ということを意味している。私たちは〝本当の音楽〟とは何なのかということを改めて考え直す必要がある。

ただ、私たちは感覚的にではあるが、CDを聴いた時に感じる印象と、生演奏の音楽を聴いた時に抱く印象が違うということを知っている。

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ここ最近起きている〝アナログレコードへの回帰〟という風潮。「もう一度、ターンテーブルでレコードを聴こう」という感性の鋭い人たちが増えてきた。彼らはノスタルジーへの憧憬だけでなく、CDとは違った質感やファンタジー性に気付いている。

CDが電気信号によってデジタル保存していることに対し、レコードは流れている音をほぼそのまま記録している。つまり、2万Hz以上の音域もカバーしているのだ。聴覚で感知できないものを、身体が感知している。

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これまでの文章から「私たちはいかに狭い領域で物事を判断しているか」ということがわかる。1/fゆらぎやアナログレコードの話はほんの一部に過ぎない。意識を超えた領域もまた、感知している範囲に含まれているのだ。頭で考えていることは、氷山の一角なのである。水面下には膨大な感覚知が機能している。

それらは、美意識、芸術、直感、インスピレーションという言葉に置き換えることができる。私たちは、センスやアートを非言語の領域、あるいは、顕在的な意識の外側で共鳴させ、交信している(それは文学などの言葉を扱う芸術においても。なぜならば文学は想起される感情や想像に本質的な価値があるからだ。つまり、言葉はツールに過ぎない)。

私は、五感で感知できない領域は経験知によって豊かになるものだと想像する。それは「美意識」に見立てることによって、よりわかりやすくなる。以前、日本の美意識について考えたまとまった時間があった。


これらの〝美〟は、点として「そのものが美しい」というよりも、複合的に、あらゆる要素が絡み合って現れた美である。それは〝佇まい〟と似ている。〝佇まい〟は、見えているようで、目に見えない、耳に聴こえない、肌に触れることができない。それらを感じた経験によって審美眼は磨かれていく。つまり、経験知こそ、センスや直感へと繋がるのだ。

一流のもの、美しいものを体感する。自分というフィルターに通すことで、知覚を超えた何かが蓄積されていく。それらの経験知が、言語化可能な域、さらには知覚を遥かに超えた域での審美眼を育てていく。

絵画、音楽、映画、小説、詩、書、料理、酒、建築、写真、香り…

あらゆる芸術や自然の美に触れ、体感し、経験知を獲得していくことで、感知する力は磨かれていくに違いない。それはきっと、私たちの生きる上での感動と創作の助けになるだろう。



(『感知する力』改稿:おわり)


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このnoteは2018年10月に投稿した『感知する力』の改稿です。


この記事をillyさんに添削のお願いをしました。


添削によって、結論への丁寧な筋道と起承転結を意識しました。

提言①、結論に至った道筋を示す。
提言②、例示を厳選する。
提言③、視覚的リズムを整えてみる。

指摘された部分の例示の取捨選択をし、「言語を知らずとも、わかってしまう」という問題提起の個人的なエピソードを記しました。また、僕の悪い点である「省略と飛躍」をできるだけ筋道立てて書いてみました。写真と改行によって視覚的なリズムを整えました。

反省点として、「整理」を重視したため、文章が少し難しくなってしまったかもしれません(もっと親しみやすい文体や言葉選びや工夫が必要だったかも)。

illyさん、ありがとうございました。



「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。