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就活生のルサンチマン 〜その進路は自らの選択か〜

自粛期間中のインプット(学習)した中から、哲学のルサンチマンについてアウトプットしていく。

ルサンチマンとはニーチェの言葉で、簡単に言い換えると「やっかみ」になる。
このルサンチマン(やっかみ)は非常に面白く、ニーチェは私たちが「やっかみ」と思わないような感情や行動をも含む、幅広い概念として提案しています。

イソップ童話に「酸っぱいブドウ」という話があります。キツネが美味しそうなブドウを見つけるが、どうしても手に入らない。やがてキツネは「あのブドウはきっと酸っぱいに違いない。食べてやるもんか。」と言ってその場を立ち去ってしまう話です。この話がルサンチマンに囚われた人の典型的な反応と言えるらしい。キツネは、ブドウが手に入らないことを単に悔しがるのではなく、「あのブドウは酸っぱい。」と価値判断の転倒を行い、溜飲を下げる。ニーチェが問題として取り上げているのはこの点で、私たちが本来持っている認識能力や判断能力がルサンチマンによって歪められてしまう可能性があることを指摘しています。

ルサンチマンに囚われた人がその状況を改善するために次の2つの反応を示す。

①ルサンチマンの原因となる価値基準に隷属、服従する
②ルサンチマンの原因となる価値判断を転倒させる

この2つの反応により、私たちは「自分で物事を判断する」ということができない恐れがある。
ルサンチマンは全ての事象において発生する可能性を秘めているが、今回は中でも就活生に焦点を当てて考えてみたい。

ではいってみましょう!

①-1 ルサンチマンの原因となる判断基準に隷属、服従する

ルサンチマンの原因となる判断基準に隷属、服従する人は、そのルサンチマンの原因を解消しようとします。例をあげる。周りを見渡すとみんなが高級バックを持っている。しかしながら、自分だけが持っていない。その高級ブランドが趣味にあわない、ライフスタイルに合わないからと、ブランドバックを購入しないという選択をすることはできる。だが、少なくない人が、同格のブランドバックを購入する。「私だけがブランドバックを持っていない」というルサンチマンに隷属、服従した結果、同格のブランドバックを購入することでルサンチマンを解消する。このような形でルサンチマンを解消しても、新作のブランドバックはまた出るわけで、そうなればまた新しいブランドバックを購入しなければルサンチマンを解消しなくてはならなくなり、結局、自信が本当に必要なものが見えなくなってしまう。

自分にとって本当に価値のあるバックをルサンチマンによって見えなくさせてしまっているわけだが、これは就職活動においても起きてしまっているのではないか?

①-2 大手に就職したいのはルサンチマンを抱えているからではないのか

就活生は「大手に就職したい」というルサンチマンを抱えているように思う。このルサンチマンは、「大手に就職できるのは優秀な人材だ」と「大手に入れば安定だ」というルサンチマンが存在する。逆に言えば、「大手に就職しなければ負け組」「大手でなければ将来がない」とも言える。このルサンチマンを解消するため、こぞって学生は「大手に!」となる。

さらには、このルサンチマンを抱えるのは学生だけではない。もっと強烈にルサンチマンを抱える人たちがいる。それは「親」だ。親は「大手に就職できなければ、子供は優秀ではないし、自分の子育てが間違いだと思われる」と考えてしまう。

学生は学生で、親は親で「大手にいかなければ!」というルサンチマンを抱えてしまう。
就職支援のなんやらとかは、知ってか知らずか、このルサンチマンを活用していく。「大手に内定をもらえるSEの書き方」やらのセミナーがまさにそう。

しかし、本当に大手に就職することがあなたのしたいことか?
ときには自分のルサンチマンで、はたまた親のルサンチマンで選んでしまった進路に、あなたの幸せはあるのだろうか?

大手が悪いという話ではなく、行動や感情は自らのものなのか?が問題になる。
知らず知らずに、ルサンチマンに囚われ、隷属し服従してしまっているのなら、今一度考えなおしてみるべきだろう。

②-1ルサンチマンの原因となる価値判断を転倒させる

ニーチェが特に問題視しているのはこの2つ目の事象。
人々は多くの場合、勇気をもって、またその行動力でルサンチマンを解消しようとし、本来の判断基準を転倒させてしまう。

「酸っぱいブドウ」の話しを思い出してみよう。キツネはブドウが欲しかったわけだが、どうしたって取れないため、その場から動けなくなってしまう。しかし、勇気を持ってその場から離れた。現状から抜け出したわけだ。私たちの周りを考えてみると「嫌だな」と「もう辞めたい」「離れたい」と思っても、その場に止まり続けてしまう人が少なくない。キツネは勇気があったので、場を後にしたわけだが、そのさい「あのブドウは酸っぱいはずだ」と考え、価値を転倒させてしまっている。

別の例を持って説明する。
「高級フレンチに行きたいとは思わない、サイゼリヤで十分だ」という主張があったとする。1つの意見として尊重すべき主張だが、見落としてはいけないのが、この主張の前提に「高級フレンチは格上で、サイゼリヤが格下だ」という概念があるということ。そしてこの格上格下の価値観を転倒させてやろうとしているところに問題がある。

しかしながら考えてみると「高級フレンチ」と「サイゼリヤ」を比べることはおかしい。高級フレンチとはレストランの分類であって、個別の店ではない。一方で、サイゼリヤは個別的な店をさす。高級フレンチにもいろいろあり、ロブションやらカンテサンスやらがあるが、それぞれ特徴があり、好き嫌いを一括りにできない。高級フレンチという名前の店はないため、ここでいう「高級フレンチ」とは概念でしかない。「高級フレンチに行ける人は成功者であり、選ばれた人の集う場所だ」という価値観を転倒させたいがために、先述の主張をする。そもそも概念である高級フレンチと個別的なサイゼリヤを比較しようとすること自体がナンセンスなため、この主張がまったく通りに合わないことがわかる。

サイゼリヤが好きなのは個人の自由だし、他人がとやかく言うものではない。しかしそこに「高級フレンチより」を入れてしまうことで、ルサンチマンに囚われ、自らの価値判断を歪めてしまっているわけだ。

②-2中小零細、ベンチャー、起業に進むのはルサンチマンを抱えているからではないのか

①-1では「大企業に進みたいのはルサンチマンを解消するための選択かもしれない」と指摘した。
では大企業ではい、中小零細、ベンチャーはたまた起業するという選択はどうなのか?ややもすると、この選択もルサンチマンかもしれない。

就職活動を始めると、大企業には必ず触れる。そこで大企業就職=成功者のルサンチマンに服従すると、「大企業に就職だ!」となるわけだが、「大企業でなくてもいい、他でもできることはある!」というのは価値判断の転倒の危険性がある。

もちろん、就職先、進路の選択は自由であってしかるべきだ。どこを選んでも構わない。ただ、それが「自分が自ら選んだ道」ならばだ。

中小零細、ベンチャー、起業の選択をするとき、それが「本当に自分がやりたいこと」なるば良い。何も問題はない。
問題は、「大企業=成功者」という価値観を、「大企業なんか」という価値の転倒をしてしまっていないか?ということ。

先述の「高級フレンチとサイゼリヤ」の例がまさにそうで、ここでも、大企業という名前の企業はない。大企業の1つの指標である上場企業をみても、まったく業態も職種も企業理念も違う。あなたが選ぶ企業も、他にない唯一のものであるはずなので、「大企業」という架空のものと比較検討することはおかしく、それはやなり「大企業=成功者」の価値観を転倒させようとしてしまっている。

大企業であろうと、中小零細、ベンチャー、起業であろうと、自らの価値観で進路を決めたいはずだ。本当に自分がやりたいこと。それは仕事の中の話しでもそうだし、プライベートとの両立の仕方という話しでもそうだろう。とにかく、自分で選んでいるのか?というところが大切だ。

ルサンチマンがあることで、選択を歪めないといけない、さらに言うと、それに気づかずに人生を歩んでいるかもしれない。そんな危険性がある。


就職活動というのは、仕事に生きるにしろ、プライベートを大切にするにしろ、人生の一部分を決めることなのだから、真剣に取り組みたいものだ。
それを、ルサンチマン(やっかみ)に囚われて、自分らしくない人生を歩まないよう、就活生のみんなには将来を考えてみて欲しいと思う。


(参考文献)
山口 周著:武器になる哲学, KADOKAWA

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