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綺麗な自分でいたかった

あまりにも体調を崩しすぎて、ありきたりな日常が欲しくなる。怖いもの見たさで欲しくなる作られたバッドエンドではなく、登場人物が笑顔で終わるやつがいい。年を重ねる度に涙腺が緩くなった。主人公が何かを成し遂げた瞬間に、それまでの背景がパッと脳内に思い浮かんでくる。「え?そこ泣くとこなの?」と他人から笑われたことが何回もあった。どうして涙が出るのかは分からない。巷でよく聞く歳を重ねる度に、涙腺が緩くなるは事実だった。

「わざわざ作られたものをバッドエンドにする意味が分からないよ」と言われたことがある。僕が書く小説はバッドエンドのものが多い。その理由は、ハッピーエンドで終わる物語などないためだ。どんな物語もその先があって、ハッピーなのか、バッドなのかは想像するしかない。いい話だったねで終わるのもいいが、それだけで終わるのは少し寂しいようは気がする。だから、僕が書く小説のほとんどがバッドエンドなのだ。喪失によって人は立ち上がる。何かを失わずに生きる人間などいない。立ち上がる時間は早い方がいいため、どうやって気持ちを整理するかを描く。これが誰かのためになっているかは分からないが、書きたいものを書く方が楽しいのは事実だ。

今朝の体温は38度を超えていた。昼と夜は36度後半になるを3日も過ごしている。何をやっても同じ生活になるのであれば、たくさん寝ても意味がないと思った。だから、今日は映画を2本観た。クレヨンしんちゃんとヒロアカだ。両方ともハッピーエンドで終わった。作られたものが予定調和で終わって良かったと安堵する。

どうして僕はバッドエンドの物語ばかり書いているのだろうか。ハッピーエンドの物語の方が観ていて気持ちがいい。先ほども理由をいくつかつらつらと並べたが、それだけなのだろうか。幸せを自ら遠ざけたいのか。否、ハッピーエンドの物語の書き方が分からないためだ。バッドエンドの物語の方が書きやすい。どん底の気持ちを味合わせて、そこから這い上がる術を用意する。こっちの方が書きやすい。だから、僕はバッドエンドの物語を中心に書いているんだと思う。

綺麗な自分でいたかったと思う。澄んだ瞳をして、誰かの嘘にまんまと騙されるような純粋な人になりたかった。でも、いろんな経験がそうさせてくれない。これまでの人生は楽しいよりも辛いの方が多い。今は幸せな日々を過ごしているから、こうして辛い過去を綴っていられる。綺麗な人は自分が綺麗だとは言わない。評価はいつだって他人がするもので、自分がしたものはいつだって紛い物と化す。誰かと接するときにこうしたら喜んでくれるかなとか、これは嫌だろうなとか、そういった打算的な考えをしない人間でありたかった。たくさんの人を傷つけてきたからこそ、得た優しさが心を醜くする。

ほとんどの不安は杞憂に終わるものらしい。この体調不良もずっと続くわけではない。いつかちゃんと健康的な生活に戻って、病気になったことすらもいつか忘れ去ってしまう。ハッピーエンドとか、バッドエンドとか、そういうのも刹那性を帯びた結末の一つに過ぎない。そう考えた途端に、この苦しみすらもどうでも良くなった。空は雲がかかっている。雨が降る可能性もある。天気予報を見ると、深夜に雨が降るかもしれないらしい。それすらも全部どうでも良くなった。


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