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「やりやすさ」に惑わされないで

今やっていることは、本質的に必要なことでしょうか。目的を果たすために、目標を達成するために最も重要なことを実践しているでしょうか。
つい自分(たち)にとって「やりやすいこと」をやってしまっていないでしょうか。

この「やりやすいこと」に惑わされることについて今日は書きます。僕自身が、学生時代に残した大きな悔いがありました。今日も、自身と誰かの成長と変化を望む、すべての大人たちに向けて話します。


思いこみの役割分担

大学生の頃、とある教育団体に所属し、夏・冬・春休みに開催するキャンプの企画・運営に従事していました。全国から数百人〜千人単位で、主に小学生から大学生までが集まり、高校生のリーダーを有志で募って研修し、3泊4日を過ごすというもので、首都圏にいる有志の20名前後の大学生が、プログラムの企画を中心に、1年中その準備をしていました。心も時間もかなり使っていましたし、人格形成にも寄与した、僕の半生にとって大きな存在です。

いかにキャンプをよくするかについて、当時なりに死ぬほど考えて、それなりにやったこともあると思います。しかし、卒業して数年経った頃、猛烈な後悔に襲われました。キャンプをよくする以前に、キャンプの参加者が減っていたんです。もっというと、その団体に所属する全国の会員(キャンプ参加者の母集団)が年々減っていたんです。僕もいち会員でしたが、その現状はよくわかっていました。にも関わらず、その団体やキャンプを脅かす大きな課題について、何もしませんでした。実際にキャンプ参加者は減少して、高校生リーダーに応募する人数も減っていました。にも関わらずです。


なぜそんな愚行を犯したのか?

それはひとえに、会員やキャンプ参加者の募集は、大学生チームのタスクではなく、その団体の職員のタスクだったからです。会員集めは団体のビジネスモデルの根幹でもあったので、大人の世界というか、不可侵な領域だと思っていました。きっと、基本的には今もそうだと思います。でも「これしかやっちゃいけない」という思い込み故に、挑戦することもなく、本質的な課題を見逃しました。どんなにいいキャンプをつくったところで、来なくなるくらいなら、それは本当にいいキャンプなのか。そもそも来ないのはなぜなのか。避けては通れない命題だったはずでした。それでも、キャンプのプログラムをつくることだけやっていました。いつもやっている、自分らにとって「やりやすいこと」だけに没頭しました。


昨日1on1したAさんが、同じような愚行を犯そうとしていました(愚行とか言ってごめん)。Aさんが従事してきた活動で、今年度、Aさんは最終学年を迎えています。夏にあるイベントで、これまで培ってきたものを後輩に残そうとしていましたが、コロナの影響で、従来のイベントが中止になってしまいました。しかし代わりに、これまでにない新しいイベントを開催することになったので、想定していたものとは異なるけれども、なんとか「後輩に残す」という使命を果たそうとしていました。

この新しいイベントは、これから大人たちが企画を始めるとのことで、Aさんはその大人たちが担当する企画を待っていました。しかし、待っていたら、いつもと異なるイベントになるので、今回使命として掲げた「後輩に残す」ことができるかどうか、天に委ねてしまっているような状態なんですよね。どうしても残したいことがあるなら、それを残せるイベントの形や関わり方に持っていくべきじゃないですか。もちろんそのキャンプが本質的に魅力あるものにする必要はあると思いますが、その上で使命を果たすための最善は尽くすべきなはずです。

あまりに僕の後悔をフラッシュバックさせる内容でした。Aさんとは一緒に飲んだこともあり、僕の後悔は以前から伝えていたので、昨日改めてその話をしました。


Canかどうかは関係ない

やったことないからやらないのか? できないからやらないのか?
それは目的や使命に対して不誠実だし、自身のためにもなりません。全然かっこよくもありません(僕の主観です)。

思い出したものがありました。キャリアデザインや自己分析、あるいは組織分析の文脈で「Will-Can-Must」って聞いたことありますか? リクルートのマネジメントでの使用例が有名なのでしょうか。

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この「Can」が諸悪の根源なんじゃないかと思ったんです。あるいは、Mustの解釈が肝なんじゃないかと思います。何に忠実になるか、ということですね。与えられた役割だけでなく、自分(たち)の使命に忠実になるべきじゃないでしょうか。

厳密に言えば、Canを考えることはいいことだと思っています。人間、得手・不得手がありますし、得意なことをやった方がいいですし、得意なことを考えることで次の一手が見えてくることもあります。でも、Canに囚われる必要はないんです。Canを考えるのは、頭の体操というか、参考程度にすべきじゃないでしょうか。

もちろん、目的が常に最優先すべし、という議論でもありません。やってみたいことがあればやってみていいと思います。そういうことではなく、重要な目的や目標がある場合において、Canに囚われずに手段を考えることが必要なのではないかということです。


人間は、つい「やりやすさ」に惑わされます。他の1on1している学生の中にも、やりたいことではなく、やりやすいことをつい選んでしまうことがままあります。自分では気づかずに、あるいはつい誘惑に駆られて、「やりやすい」ことを選んでしまいます。やり方が想像できたり、結果を出しやすかったりするからです。でもその選択をして、後悔する学生をたくさん見てきました。

先週1on1したBさんも、つい「やりやすい方」を選んでしまう学生でした。そして、大変反省しておりますが、僕はそのことに気づけませんでした。昨日開催した、定期的に行っている1on1を振り返るmtgで、チームメンバーとBさんについて振り返った際に指摘され、初めて気づきました。よく「今日話したいこと」を聞くのですが、それがBさんにとって話しやすいこと、考えやすいことで、本質的なBさんの課題から逸れていたのです。

1on1において、話したいことを話す、考えたいことを考えるのは基本だとは思います。しかし、重要な課題があるにも関わらず、「やりやすさ」故に、他の話題を選んでしまうことは、意識的・無意識的いずれせよ気を付けなくてはならないことでした。

だから、どうか、みなさんも「やりやすさ」に惑わされないように。大切なことを見失わないように。自分も、自分の大切な誰かにとっても、忘れないようにしたいと思います。


* * *

今日もありがとうございました。
Bさん、あのとき気づけずごめんよ。

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