見出し画像

舞踊における「身体性」について深くなる。

note74日目。

修士中間発表終わった!!

ちょっとnoteの更新は難しかったため遅れてしまいました。
いや~問題点がいろいろと見つかった。
と同時に、いいことも結構あったので、やる気が出ていい会になったと思う。

一番最初に発表だったのでちょっと緊張したかな……
でも逆に一番最初でよかったかも。
人少なかったし。笑

朝ってやっぱり人少ないよね……
まあ自分の研究に興味があった人が少なかっただけかもしれないけど。
そう思うと辛い。笑
でも少なくとも興味をもってくれた人もいたのでよかった。

これからも研究どんどん進めていかなければ。

舞踊における「身体性」

一番説明に手こずるのがやはりこれ。
今日の発表までに上手くまとめきれなかった内容であり、でも今日発表したことで「もしかしたらこういうものなのかも!」というのが出てきた。
なのでそれを今日は書いていこうかなと思う。
(私のnoteを前から見ている人はまたかよって思うかもしれない。笑)

「身体性」っていう言葉自体、あまり聞き慣れない人もいるかもしれない。
もしかしたら辞書とかには載ってないのかも……
wikipediaを見ても大した説明は載ってなく、他のサイトにも特にこれといった記載はない。

身体性(しんたいせい、Embodiment)とは、身体が持つ性質を指す。 分野ごとに様々な定義がある。

これがwikipediaの説明。

分野ごとに様々な定義があるというが、では舞踊における「身体性」とは。

まず、前提として「舞踊の身体」は「日常の身体」と別物である。
尼ヶ崎彬さんの著書にも書いてあるが。

尼ヶ崎彬によれば、日常生活において人間の身体は自然的・文化的な秩序に従って自動的に動いている。それに対して、舞踊の身体はこの日常の秩序を逸脱し、別の原理によって秩序化されている。

舞踊の身体は、日常の身体とは別の秩序をもっているという。

バレエとかはまさにそういう感じ。
秩序だった、動きのメソッドみたいなものがある。

なので、舞踊の身体性と日常の身体性とは同じではない。

では、何が舞踊の身体性と言えるのか。
上の話の続きで、以下のような記述がある。

そのためには身体の動きを意識的にコントロールする必要がある。その身体の動きには筋肉や体勢などの内面的なものと、想定された他者の目から見た身体という外面的なものがある。身体を時間的分節と体勢の型という二つ外面の秩序に従わせ、その動きが踊る主体の内面の自律的な秩序から生まれたように見えるときに、舞踊の身体が現れる。そして、内面の身体を意識しなくとも身体が自動的に秩序を具現するようになったとき、舞踊の身体は完成する。

内面の自律的な秩序……感情とかそういったものによって動きが生まれているように見えたときに舞踊の身体は現れるという。

つまり、舞踊における身体性=身体表現ということではないだろうかと私は思った。
ここでいう身体表現とは、表現者が何かを伝えようとして表現した結果生まれた動きであり(何も考えずに動く即興ではない)、受け手に伝わって初めて成立するものであると考えている。

もはや哲学みたいな感じにはなってくるのだが……
noteでいろいろ考察していくのも悪くはない。
あまりまとまってはいないが。

でもだんだんと掴めて来ている気がする。
これからも考えを巡らせていきたい。

この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?