さくぽん、20代を振り返る。前編

さくぽんです。キャンプの仕事をしています。

今年(2020年)の3月に、30歳の誕生日を迎えたのですが、気づいたらもう5月。

自分の20代を振り返り、どんな感じで過ごしてきたのか、書き残しておきたいなぁと思いながらも時間ばかりが過ぎてしまいました。

なぜ、書き残しておきたいのかというとその理由は3つ。

・自分が何をして何を感じたのか、それを棚卸しすることで30代、これからの方向性がより明確になる。

・35歳40歳になった時に、当時の僕(30歳の今の自分)が20代を振り返った時に何を感じてたのかを、後々振りかえることができるように。

・佐久間亮介ってどんな人だろう?と気になった人に、とりあえず読んでもらって知ってもらうため

です。

最近、僕のことを知った人も、日本一周キャンプ旅の頃から知っている人も、「あぁさくぽんの20代ってそんな感じだったのか。人の人生って色々あるな」みたいに思ってもらえると幸いです。20代の初め頃から時系列で書いていくので、きっと長くなっちゃいます。ざくっと知りたい人は目次を読んで気になるところだけ読んでください!


ざっくりいうと

・大学3年生、20歳で東南アジアバックパッカーの旅に出て、日本という国を外から見ることができた。その後東日本大震災で、ボランティアに参加。初めてテント泊をした(それが僕のアウトドア原体験)。これが後につながる。

・就職。若手のうちからガンガン働く会社に勤務。それなりの仕事をやらせてもらえてましたが、激務で体調崩す。そんなときに休みの日にキャンプしたことでとてつもなく救われた。が、その後も仕事の激務は変わらず退職を決意。世界一周の旅を目指す。

・なぜかキャンプをもっと世の中に広めたくなり、ヤマケンを誘って47都道府県日本一周キャンプの旅へ。キャンプ初心者向け情報ブログをスタート。のちに月80万PVに。このとき24歳〜26歳。旅は約2年間。

※前編ここまで

・日本一周達成後、2ヶ月のフィリピン英語留学を挟んでニュージーランドへワーキングホリデービザで入国。NZでも1ヶ月強、語学学校に通ったあと、中古車を買ってニュージーランドをキャンプ旅。NZの肩肘張らない行き方、自然への考え方に感銘を受ける。その後、日本テレビ「ヒルナンデス!」の出演オファーを受けて、ニュージーランドから帰国。結局ニュージーランドは5ヶ月程度の滞在だった。

・その後、キャンプの仕事をするフリーランスに。帰国後はなかなかうまくいかないこともたくさんあったが、ユニフレームさんにオリジナルシェラカップの製造をお願いして自分達のブランドを立ち上げたり、キャンプイベントにゲストとして呼ばれるように。

・そして、ほぼ現在に近いですが、「つりwith camp」というムック本で原稿を書いたり、Hondaキャンプというウェブサイトで、企画・原稿執筆やソロキャンプ企画をやったり、トレジャーファクトリーさんと一緒にイベントの企画・運営をやったり。佐久間デザインの「ガレージテント」がtent-Mark DESIGNSから発売予定。30歳。ビジネス的な視点でもっと能力を向上させたいと思って、ビジネススクールに通ってます。

というような流れです。ばーーと書き出したら、2万字に迫りそうだったので(長くてごめんなさい。それだけ濃い20代だったということ)、前編・後編に分けました。

では、まずは20歳の頃の話から。



20歳。就活とともに動き出した人生

僕の出身大学は駒澤大学の法学部。特別頭がいいわけでもなく、法学部だからといって弁護士とかそういう職業を志ざせるレベルではなかった僕は、大学3年生の10月。仲間と歩幅を合わせるかのように、就職活動をはじめた。

当時の僕の就職先のイメージは「海外と何かしらの繋がりがあるような仕事がしたい」「なんとなく、海外の貧しい人を助けるようなこともしてみたい」という超ざっくりな目標。なんでそう思っていたのか、今振り返ってみても謎だが、当時の自分はなんとなくそう思ったみたい。

そんことを思っていた自分でしたが、ここで一つ、冷静な疑問が自分の中に浮かび上がった。

「俺、海外行ったことないなぁ。海外と繋がりがある仕事がしたいとか言っておきながら、実際に行ったことがないのはあまりにも説得力がなさすぎる。じゃぁ行ってみよう!」

ということで、海外へ行くことを決意。高校の友人がベトナムの少数民族の研究をしていたのをFacebookで知っていたので、なんとなく行き先はそこがいい!と決めた。

すぐさま池袋のパスポートセンターでパスポートの申請を済ませて、その足でHIS(今みたいに個人がネットでチケット購入するような感じではなかった)に行って、何が必要でいくらぐらいなのかを聞いてきた。ざっくりの費用は10万くらいとのこと。

ベトナムへ行くのもいいけど、もう一カ国くらい行ってもあまり費用が変わらないということで、カンボジアも行くことにした。

仲の良かった一つ上の大学の先輩に相談したところ「俺もいきたい!」と先輩も乗り気に。男二人のベトナム・カンボジア旅が決定。

旅立ったのは11月の中旬。就活解禁からわずか1ヶ月半だった。

ベトナムの少数民族、カンボジアの地雷

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成田空港(たしか)からハノイへ飛ぶ。初めての海外。しかもバックパック。超緊張した。地球の歩き方を熟読した。

ハノイの空港に到着して、ハノイ駅から寝台列車に乗ってラオカイという街を経由。目的地となるサパを目指した。

余談だけど、この時ハノイ空港でボッタクリタクシーに捕まって、通常料金の5倍くらいの料金を払わされてしまったけど、ハノイからカンボジアへ行くときに、ハノイの空港からの出発だったため、そのタクシードライバーをみつけて、ほとんどのお金を返してもらったというネタ事案も発生した。

サパを教えてくれた友人から、ザオとチューというモン族を訪ねたらいいと紹介してもらっていたので、その2人と合流。2人はモン族の民芸品を販売しつつ、僕らのような旅行客と一緒にトレッキングツアーなんかをやって生計をたてていて、当時おそらく13〜15歳くらいの2人がとてつもなく頼もしいなと思った。

ベトナムで僕が感じたこと

・生まれて初めての海外。日本という国を外から見た時に、文化、歴史、公共衛生、食事、地域などなどいいところがたくさんあると知れた一方で、その良いと思われることを自分自身が学校で学んだ程度のことしか知らないと気づいた。この原体験が、のちの日本一周旅につながった。

・少数民族は、日本的(経済的)な価値観でいうと決して裕福ではないけど、彼女たちは幸せそうに生きていた。一方で、日本人である自分は、生まれながらにして経済的には豊かだけど、どこか暗い気持ち、未来に対して明るいものを持っていないそのギャップを感じた。

・彼女たちは民芸品を売るために、それはつまり生きるために英語を操った。アルファベットは書けない、読めないけど、英語は話せる。僕は英語は書ける、読めるけど、英語が話せない。悔しかった。

・彼女たちに夢を聞いた。ザオは「学校の先生になること」、チューは「結婚すること」と答えた。日本でいう中学生くらいの女の子の、切実な夢。生まれる国が違うだけで、「夢」の持ち方、その幅も変わるのかと、日本人として生まれたことの意味を考えるようになった。


ザオとチューと別れて、カンボジアへ。

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<若すぎる写真(笑)>

カンボジアは、アンコールワット、「ラピュタの世界」と言われるベンメリア遺跡、現地の日本語学校へ行った。

アンコールワットは、凄い!の一言。入場料が高くて驚いたけど、観光収入を増やすしかないカンボジアなりの施策なのだと思って納得した。

ベンメリア遺跡へは、タクシーの運転手にチャーターして向かった。崩れた遺跡がほぼ手つかずのまま残っていて、そこはまさしくラピュタの世界だった。

しかし、それよりも僕が見たかったのは地雷の真実だった。すぐ近くにはドクロマークの看板がたっていて、そこには紛れもなく地雷がある現実があった。日本で生まれ育ったら目にすることはないであろう地雷。2010年当時でも、まだ、戦争の爪痕はカンボジアには確かにあった。

ちなみに、ここへ行く道中?で立ち寄った、トンレサップ湖で水上生活をする現地の方々の生活ぶりも拝見した。銀ダライに乗って遊ぶたぶん2〜3歳くらいの男の子が衝撃だったけど、その子は僕が衝撃を受けていようが何しようがそんなことはお構いなしに楽しそうだった。

その後、カンボジア人が日本語を学ぶ、日本語学校に飛び込みで参加した。今思えば無謀すぎるけど、現地の日本人の先生方は「生きた日本語が学べるのは、生徒にとってもいいことですから」と受け入れてくれた。

皆に「なぜ日本語を学ぶのか」を聞いてみたところ、「日本に行きたい」「日本語が話せるようになればガイドになれる。そうすればお金がたくさんもらえる」という回答だった。ここでも自分の価値観の何かが壊れる気がした。「お金」ってなんだろう。「裕福」ってなんだろう。「日本人にとっての幸せ」ってなんだろう。

カンボジアで感じたことは2つ

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・地雷は、たしかに、そこに存在した。そして、それを除去しようとするユニセフの職員の人がいた。興味本位で地雷エリアのロープを渡ろうとして怒られたけど、僕が日本人だと知って顔つきが変わった。

「我々は日本人のおかげでこうやって地雷を除去できている。ありがとう」と言われた。「日本人」であるだけで誇らしい気持ちになった(ちなみに、カンボジアの紙幣には日の丸と日本のお金で建設された橋の絵柄がのっている)。これもまた、海外に出なければ気づかなかったこと。

・カンボジアの子ども達はみんな楽しそうに生きていた。それはきっと「知らないことが多いから」だとも思った。自分たち日本人は「裕福であること」をたくさん知っているがゆえに、不幸になっているような気がした。


こうして僕の初めてのバックパック旅は終わった。たしか10日間程度の旅だったけど、僕の人生にとってはとてつもなく大きな意味をもった旅だった。

実際に海外へ行ってみると、行く前に感じていた「貧しい人たちをなんとかしたい」という妄想は、たまたま日本という裕福な国に生まれた、平和ボケした日本人(僕)が考える独りよがりな思いだと感じた。(あくまで僕の考え。海外青年協力隊などで一生懸命働いている方を否定するものではありません。僕も青年海外協力隊になって見たかった人です)

この経験から、生きるってなんだろう。日本人に生まれた意味ってなんだろう?そんなことを考えるようになった。


就活の最中に、東日本大震災が発生。ボランティアで感じたこと

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帰国後、就活をした。旅で衝撃を受けた僕は、「海外の貧しい人を助けるようなこともしてみたい」ということよりも、今日本人として生まれた意味みたいなことを深く考えるようになっていた。

就活が続く。実は、高校のときの英語の先生が素晴らしい人だったので、僕も教員になってみたいという密かな夢があり、教職課程を取っていた。

就活もしているけど、教職課程もある。

教員になるにしても、一度社会人を経験してから、いろんな視点で物事を伝えられるそんな人になりたいという思いもあったので、就活を続けていた。

そんな時、東日本大震災が起きた。

幸いなことに家族は無事。震災の約1ヶ月後には、企業から内定を頂くことができた。そこで僕はその会社への入社を決め、残りの学生生活は、ボランティアと旅をして過ごすことに決めた。

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<ボランティアへ行ったときの写真>

一番最初に行ったのは、4月の中旬くらい。現地のガソリンスタンドが動き始めたらしい、そしてボランティアを募集しているということで、車を持っていた友人と一緒に宮城県の名取市(たしか)へ。現地の悲惨な状況は、目を覆いたくなるような光景だった。

船が陸にあがり、クルマはボコボコに。家のガラスは割れ、車道の脇には大量の瓦礫があった。

最初に伺った先は、イチゴ農家さん。立派な家屋の1階部分は浸水。大きなテレビもタンスもすべて海水と泥水につかった。

冷凍保存していたイチゴも、電気が供給されなくなり、ドロドロになっていた。

いろんなものの匂いが混ざりヘドロと化していたため、強烈な匂いが鼻につく。今までで嗅いだことのない匂い。

本当は誰かの口に運ばれて、幸せにするはずだったイチゴも。津波で無残な姿になって異臭を放っていた。悲しい現実だった。


ボランティア生活は、自分みたいな何もできない学生でも「手伝ってくれてありがとうね」と被災された方から感謝の言葉を頂き、僕でなにかできるのであればと、東京と被災地を行ったり来たりする生活を続けた。

その後、活動の場所を気仙沼市の本吉というところに移して何度も通った。ボランティアは、自分で食事や宿を準備するのが当たり前のことだったので、友人の親が持っていたテントを借りて寝泊まりをした。

実は、これが僕にとっての初めての「キャンプ」だった。

たしかコールマンのテントに、マットがしょぼかったから下にダンボールを敷いて、寝袋にくるまって寝た。

国難、世界が心配する大災害。そんな事態でこう思うのは不謹慎かもしれないけど、初めてのテント、初めての寝袋、初めての野外での宿泊。

「あれ、外で眠るのってこんなに気持ちがいいもんなんだ」と当時の僕は感じた。

もし、ここでテント泊の経験をしていなかったら、僕はきっとアウトドア・キャンプの仕事をしていないと思う。幼少期にキャンプをした経験は皆無だったから。

そう思うと、不思議である。誰かのためをと思って行った被災地で、僕はライフワークとなるキャンプに出会い、むしろ自分の人生にとって大切な何かのキッカケをもらうことができた。


ちなみに、この時テントをいつまでたっても建てられない僕らに手を差し出してくれたお兄さん(ボランティアの方)がいたのだが、まさかの神奈川県のアウトドアショップsotosotodaysの店長さんはじめ関係者の親しい友人で、後にキャンプ日本一周旅をしている最中に再会を果たす(びっくり)。

東日本大震災で感じたこと

・当たり前だと思うこと、日常は、実は当たり前ではないこと。

・大きなことではないけど自分がやったことに対して、目の前にいるその人が言う「ありがとう」の強さを知った。

・ボランティアを、偽善だなんだって騒ぐ人もいるけど、目の前で喜んでくれる人がいる以上、偽善だなんだなんて関係ないと感じて、自分の意思で行動することの大切さを知った。

・初テント泊。外で眠ることの気持ちよさ。自衛隊のお風呂にもお邪魔させて頂いて、貴重な経験だった。


大学4年、東南アジア一人旅

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東日本日本大震災のボランティアは、11月くらいまでほぼ毎月のように行っていた。気づけば大学4年生も終盤。試験も卒論もなかったので、学生最後の思い出にと、東南アジア一人旅を決行した。

エアアジアでマレーシアに入り、タマンヌガラ国立公園へ。

冒険心に火が着いたのか、一人ジャングルへと突入。っが、どこから来たのかわからなくなり、あげくにはヒルに大量に喰われてパニックになった。なんとか川沿いを下ることで街にたどり着けたが、マジで死にそうになる経験をした。

その後、日本では経験できない徒歩での国境超え(マレーシア→タイ)を経験。

国境を渡ってすぐの街は、軍人が銃を構えて見張っているような地域で、カルチャーショックだった。この街で両替しようと思ったけど、街が小さすぎてなかなかできなくて超焦った。結局、銀行で両替できたけど、自分が日本人で「本当はあんまりやってないんだけど、あなたは日本人で信用するわ」と言われて、とてつもない衝撃を受けた。「日本人」ラベルの強さがこんなローカルな場所でも通用するなんて・・・。


マレー鉄道に乗ってタイのバンコクへ。寝台列車でもなんでもない電車で25時間くらいの電車旅。ケツが割れるかと思った。もう二度とあんな鉄道旅はしないと誓った(笑)

バンコクから、アユタヤを経由して、ラオスへ(チェンマイも行った)。ルアンパバーン、ヴィエンチャン、そのまま陸路でベトナム行きを目指すが、旧正月と重なって、マイクロバスに30人以上すし詰め状態になる経験をする。隣に座ってたばあちゃんがみかんをくれたけど、全然言葉がわからずにてんやわんやしてたら、「なんだあんたベトナム人じゃないのかい!」と爆笑。この頃から現地の人と間違えられるようになる。そして再びサパへ。

過酷だったけど、楽しかった一人旅。ゲストハウスで、アリが列をなしてベッドを横断しているような部屋に泊まったのも今となっては良き思い出。

ここでもいろんなことを考えた。けど長くなるから割愛。

東南アジア一人旅で感じたこと

・人生で最も死にそうになった経験。人はいつか死ぬということを、身を持って体験した。旅が始まってすぐだったので、死生観について旅の間中、考えていた。

・自分一人、地球の歩き方一つで東南アジアを北上。たくさんのトラブルがあって、その分たくさんの人に助けれた。名も知らない異国の人の愛情が身にしみる旅だった。


就職。メーカーで営業マン。激務の日々。

無事に就職。生活用品メーカーの営業マンとして働くことに。勤務地は東京の飯田橋だった。

得意先の業態は、ドラッグストアやスーパーで、研修が終わってわりとすぐに得意先を持たされる環境で1年目の年間売上計画は2つの得意先で1億3,000万円。

EDLP(エブリデイロープライス)戦略で知名度を高めているスーパーと千葉のローカルドラッグストアが担当だった。

まず目指したのは、とにかく顔を覚えてもらうこと、そして、可愛がってもらうこと。得意先は2つだけど、担当バイヤーは複数にいるので、それら全員に可愛がってもらえるように、接触回数を増やしていった。

それが功を奏したのか、今まで難攻不落だったスーパーの商品部部長に可愛がって頂いて、売上ボリュームの大きいLED電球(東日本大震災のあとだったので、節電需要が高かった)の品揃えを充実させることに成功。部長を本社までお連れすることができたし、一時期あまりにも僕が取引先に商談に行くもんだから(ほぼ毎日)、「お前、毎日いるんだったらここで仕事していいぞ」と謎に席をあてがわられたこともあった(他のベンダーさんからしたら謎の存在だったと思う)。

そんな1年目を過ごした12月末。同じ部署の尊敬する先輩が、他部署へ異動することになり、その先輩が持っていた大手のドラッグストアの得意先を引き継ぐことになった。

ある意味これが僕の人生を左右する転機になった。

その頃、世の中に大きな変化が起きた。民主党政権から、自民党へと政権交代が起こり、長年続いていた円高(僕が海外旅へ行っていたときは1ドル80円くらいだった)から円安へ。それが僕の業務負担をとんでもなく増やした。

中国で製品をつくり、日本へ輸出をしていた関係で、為替変動の影響をもろに受け、お客様に値上げの交渉を行わなければいけなくなった。

しかも、値上げの交渉は、お客様のPBアイテムの値上げ交渉がメイン。PBの売上ボリュームはお互いにとってとてつもなく大きく、得意先からすれば1円でも安く仕入れたい、こっちとしては1円でも高く値上げをしなければいけない。この狭間で何度も何度も先方の商品部の部長や、開発課の課長に商談をしに行っていた。

そして、当然のことながらそれと同時に売上目標の計画達成を目指すべく、バイヤーとの商談も重ねなければいけない。

為替の影響で利益率が下がっているから、運送関連の経費などを下げる工夫をしなければいけなかった。

中国からのコンテナの中身を最適化したり、国内配送の仕組みを改善したり、ベンダーと手を取って利益率を高める方策をとったり。ありとあらゆる方策を実行していたけど、ついに限界に来たのか、帯状疱疹が全身に発生した。

それでも我慢しながら出社をしていたけど、ある時上司に腕を見られて病院へ行きなさいと言われて、そのまま病院へ。注射を打ってもらい、薬をもらうために近くの薬局で待っている最中に意識を失った。

なんとかその日は家に帰ることができたが、次の日から数日。僕は朝起きれなくなり、午後から出社をするようになった。

そんな時、タイミングが良かったのか、ちょうどGWが訪れてキャンプへ行くことに。限界を迎えていたタイミングだったから、キャンプに、自然にものすごく救われた。

日々頭は仕事のことでいっぱい。終電で帰ることも多々あった。

でも、自然を前にしたら、自分が悩んでいたことがすごく小さいことだって気づいた。東京でビルに囲まれて、時間に追われながら過ごす日々。

でもその一方で、キャンプをして自然の中で時計を外してのんびりとする時間も、この世の中には確実に存在して僕は救われた。

自分が今生きている世界が絶対ではなく、日が昇り木々が風に揺れ、ゆっくりと空の色を変えながら沈んでいく夕日。そんな世界があることを知れて、僕の心から何か大きなつっかえが取れたような気がした。


会社員時代に感じたこと

・仕事自体は好きだった。明らかにキャパオーバーだったけど、責任感を持って取り組んでいたし、大きい仕事をやらせてもらえるのはありがたかった。

・でも、そんな日々が続いたときに、「今やっている仕事は誰を幸せにしているんだろう?」と疑問に思った。値上げの交渉をして、得意先は極力安く仕入れようとしているけど、消費者が買う値段は変わらない。苦しむのは、原価を削った先にある工場勤務の人?誰?と考えるようになった。

・そんな経験から、自分のやっていることがより直接的に、誰かの幸せを作るような仕事をしたいと思うようになった。


キャンプの世界へ。キャンプが誰かの人生を幸せにする。

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貯金100万貯めたら、会社を辞めて世界一周の旅に出ようと決意した。そのタイミングが2013年の年末。会社員生活は、わずか2年弱で終わった。

東南アジアバックパッカーの旅をしている最中から、世界一周に漠然とした憧れがあって、会社員を退職→世界一周→(教員免許を取得していたので)学校の教員になろうと、当時の僕は考えていた。

2年弱だけど、それなりの会社でそれなりの仕事をした。そして、世界を旅していろんなものを見てきた。そんな先生だったら、生徒に対して面白い視点で物事を教えてあげられるんじゃないだろうか?むしろ、先生というのは、そういう視点も不可欠なのではないか?というのが僕の考えだった。

しかしながら、その妄想は、なぜかキャンプをしながら日本一周という選択へと変わっていく。

その理由は、無駄な使命感にある。

会社員時代の僕は、キャンプに救われた。

毎日毎日終わりのない仕事、プレッシャー、終電。そんな日々が数ヶ月続いたある日、僕は体調を壊した。

そんな日々から抜け出すことができたのは、キャンプをしたからだった。

たしか、あれは福島県の猪苗代湖だったと思う。松の木が立ち並ぶ湖畔沿いのキャンプサイトにテントを設営して、ハンモックを張って、のんびり昼寝をしていた。ふと目をさますと、ハンモックから見える景色は、きれいな松の木の葉と、青空。ちょっと目を湖の方に向けると、人工物がほぼない、ありのままの自然がそこにあった。

それを目にしたときに、今まで自分が東京で抱えていたものが、とってもちっぽけなものだって感じた。

何を語るでもなく、ただそこに、きっと何年も、何十年も自生している木々や湖を目の前にして、僕が抱えていたものがすっとどこかに落ちていくような気がした。

これが僕のキャンプの道へと進んでいく原体験。

そして、この感覚こそ、東京にいる同年代の人に伝えたいと思うようになった。

それは今振り返ると、もしかしたら初めてベトナムとカンボジアに行った時に感じた、東南アジアの若者と比べて日本の若者が元気がないというところに繋がっているような気もする。

自分が東京で働いて、悶々とした日々を過ごす。毎日会社に行って、ストレスを抱えて、金曜日の居酒屋で発散して、土曜日は寝て過ごす。

そんな毎日が、キャンプをすることによって、少しづつその景色が変わっていった自分の経験を、少しでも多くの人に知ってもらって、その人の人生の活力にしてもらいたいと思ったのだ。

当時のキャンプは、今のキャンプブームなんて想像ができないほど、ファミリーキャンプと一部のおじさんソロキャンパーだけが楽しむような世界だった。

僕自身が、ネットでキャンプについて検索しても、出てくる情報はファミリー向けか、玄人キャンパーが玄人に向けて書いているブログばかり。

キャンプ初心者の20代の僕が読んでもわけがわからないものばかりだった。

そんな現実では、自分のような20代がキャンプをやろうと思っても始められないと思い、自分たちでブログを立ち上げて、初心者向けにキャンプの情報発信をしようと、ブログを立ち上げたのだ。

そして、キャンプをもっとたくさんの人に伝える仕事がしたい。キャンプで誰かの人生を少しでも幸せにできるような仕事がしたいと思って、アウトドアの世界へ入っていった。

この頃には、世界一周の旅を辞めて、キャンプをしながら日本一周をすることが当時の僕の目標となり、前職の同僚でいつもキャンプへ行っていたヤマケンを誘って、男二人でキャンプ旅へ。2014年の春に旅立った。24歳。

キャンプ旅に向けて感じたこと、考えたこと

・自分がキャンプ、自然で救われた原体験がある。そして、これを伝えなければいけない!という無駄な使命感を感じて、会社員を辞めてキャンプの世界へ。当時の原体験は、6〜7年経った今でも、自分のキャンプの世界で働くことの根源、ベースになっていて、それは変わらない。


というところで、前編は終了。やっぱり長くなってしまってますが、後編はキャンプ日本一周旅、語学留学、ニュージーランド、フリーランスとして働いたことなどを書き連ねていきます。お時間ある方はぜひ。

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