挫折

プロ2年目の年はベルマーレの提携先クラブであるJ3の福島ユナイテッドに期限付き移籍をした。
この年、ベルマーレから同時に5人の選手が福島にレンタル移籍をする。

現チームメイトの安東輝、同期入団の田村翔太、村岡拓哉、ユースの先輩である猪狩佑貴さんと自分を含めたの5人だ。
特に同い年のタムショー(田村)とは1.2年目共に同じように苦しんでいたから、今でも連絡を取り合ってお互いを高め合える良い関係でいる。

今年はしっかり試合に出て、まずは結果を残さないとまずいと思っていたが、今考えてみると、カテゴリーが二つも下がるし、試合に出られるのは当たり前だろうという考えがちょっとはあったかもしれない。。

福島というクラブは当時、働きながらサッカーをしている選手がほとんどで、僕もチームのサッカースクールのコーチをやりながら生活を送っていた。

スクールコーチというのは初めての経験で、主に小学生を指導した。指導をして子供達が日に日に上達していくのが嬉しかったのを覚えている。

当時福島の監督は栗原圭介さんで、今は神戸の強化部で仕事をされている。選手時代は湘南に在籍していた事もあり、自分が小さい頃スタジアムで見ていた選手が自分の監督になるのは少し不思議な感覚だった。

栗原監督はパスサッカーを志向していて、湘南でずっと育った自分にとっては新鮮で求められる事も違った。基本的な止める蹴るの技術が求められ、簡単なミスが許されないサッカーだった。

栗原さんは、たまに選手の練習に入ってもめちゃくちゃ上手かった。デモンストレーションが抜群に上手な監督だった。だから選手に技術を求める言葉にも自然と重みがあるなと感じるようになった。

監督が言っていた言葉で印象的なのは「微差は大差」という言葉。とにかく細かい部分まで突き詰めてこだわってやる。そんな事を選手達には求めていた。

この年の自分の出場試合数は4試合。監督の求めるものに応えられなかった。だから試合に出られなかった。理由は至ってシンプルで、この出場試合数対する理由は自分の中ですぐ整理がついた。

ではなぜ監督の求めるものに応えられなかったのか。

自分はこの年に少しずつサイドバックというポジションをやり出した。

きっかけはたまたま練習試合で左サイドバックがいなかったから。
練習試合で初めてサイドバックをやったが、意外と良いプレーができた。自分の中でも楽しい感覚を持ちながら出来たのを覚えている。

だが最初は楽しかったが、ずっとFWをやってきた自分は徐々に心の中で葛藤をする。

やっぱりFWがやりたい。。

監督に話をしに行った事もあった。
だが監督から言われたのは、サイドバックの方が試合に絡める可能性は高いとのこと。

"納得"はしなかったが、"理解"はした。

ただシーズン終盤まで心の中のモヤモヤを消せないままプレーをしていた。
これが自分が監督の求めるプレーが出来なかった1番の理由かなと思う。

自分の気持ちがサイドバックになりきれていない状況では、サイドバックとしての能力が伸びなかった。サイドバックとして伸びようと心からは思えていなかったのだ。

自分の中での葛藤を整理できないまま、この年で僕の湘南との契約は終わった。

この年にJリーグの合同トライアウトを受けたが、FWとしてトライアウトに申し込んだのが自分のFWに対する未練を物語っている。

結局、トライアウトではどこからも声がかからなかった。
やっぱり一年間やってきたサイドバックで受けた方が良かったのかな。そんな後悔が少しよぎった。

トライアウトの後、紹介をしてもらったヴェルスパ大分への練習参加を経て入団が決まる。

この一年間は自分の人生で間違いなく大きな挫折の一つだ。
育成時代から含めると湘南の選手として過ごした10年間も終わりを告げた。

自分の人生の半分を過ごした湘南を去るのはものすごく悲しかった。
それと同時に、大分に行く事で初めて湘南の選手としてではなくサッカー人生を送る事に少しのワクワク感を覚えた。自分の事をまったく知らない人たちの環境に行って、一からやり直すことが凄く楽しみだった。

自分はあまり変化を求めないタイプだけど、この環境の変化に対しては自然とポジティブな気持ちになれた。

そんな感情を抱いて僕はJFLのクラブへとカテゴリーを移した。

長くなりましたが、この年の話はこんな感じです。
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